序
いともかしこき内わたる更なり。そのめぐりの名だたる山川宮寺のいつくしきもまたさらなし。さらぬ物かげいとどむら竹の、はつかにかこへるばかりのいとなみさへ高き賤しきあり。かよふ所はおどろおどろしく、せばき地またもいと遠しろく見渡され、くすみたる民草のくまぐまも、おとさずもらさず、石上ふるき事をもそこばくあらはして、今うつつの望いひおきつつ。絵にむかへる輩は難波のよしあしをもわすれなにくれのむすぼほれるもしげくこの図に心をやりておのがじしの業をなさば、しかしながら豊あしはらに吹きつたふる流れ久しき神風の御うつくしみの外ならんやはといふ事しかなり。
安永九年庚子年仲秋
五条式部大輔菅原為俊卿
栖霞館主人書
凡例
- 此編の巻首には平安城をあらはし、其四方を帝都鎮護の四神に官どらしめ、神社の芳境、佛閣の佳邑、山川の美観等、今時の風景をありのままに模写し、舊本花洛細見圖を増益して時々其遺漏を巡歴し、摂社、艸庵たりとも一宇も洩ず、幼童の輩、坐して古蹟の勝地を見る事を肝要とす。
- 文談は、宮古歳時記、山城名所紀行を種とし、且、舊記に委は其大意をしるし、又、脱漏あるは微細に捜り求てこれを撰書する事を専とす。
- 図中に境地広大なる所は究て細画なり。狹少なる神祠小堂は又尓らず。故に圖毎に人物あり。形容至って微少なる人物は其地、広大としるべし。形容微少ならざるは、境地狹少なり。譬ば加茂社と野宮との境地を知らするの便りなり。
- 図中の間に人物の大画あり。四時の佳観を賞して遊楽の地を知せんためなり。洛東の花見、宇治蛍狩等なり。
- 図中の名所に連綿の地あり。囲の上に円票を以てこれを繋ぐ。八幡神宮寺より宿院、石清水あるひは宇治の橋寺、惠心院、興聖寺などの連綿の地なり。
- 比叡山の図あり。東塔、坂本はみな近江なり。しかれども西塔より連綿の地にして除くこと能はず。山崎、谷観音も摂州の界なれども、連綿たればこれを圖す。
本文
上御霊社

上御霊社は平安城鞍馬口通の南にあり。祭る神は早良親王、伊予親王、藤原夫人、文太夫、橘 逸勢、藤原広嗣、吉備大臣、火雷神等の八所御霊なり。朱雀院の御宇天慶二年に鎮め奉る。いにしへ此地は上出雲寺なり、故に出雲路の御霊ともいふ、例祭は八月十八日。中御霊は京極通廬山寺の南にあり。当社の御旅所なり。観音堂の本尊聖徳太子の作にして聖観世音なり、是則出雲寺の本尊といふ。
○ 早良親王は光仁帝第二の皇子なり、延暦四年九月朝廷を傾奉らんと議をめぐらしける、其聞へありければ淡路国に左遷し、同国高瀬に至り気絶て薨じ給ふ。怨霊祟をなしければ同十九年七月に祟道天皇の追号を宣下し給ふなり〔紀伊郡藤森神社と同神なり〕。
○ 伊予親王は祟道天皇の御子なり、平城帝の御時逆心あらはれしかば川原寺において飲食を通ぜず終給へり。
○ 藤原夫人は祟道天皇の后吉子と号す、伊予親王の御母なり。
○ 文屋宮田丸は承和十年十二月に謀反の企によつて伊豆国へ配流し卒し給へり。
○ 橘逸勢は右中辨従四位下入居の子なり、嵯峨帝の御時の能書にして本朝三筆の其一人なり。仁明帝の御宇承和元年七月に謀反の事ありてこれも伊豆国に流罪せられ、九月に死に給へり。
○ 橘広嗣は藤原宇合の第一子なり、太宰府において反逆ありしかば、大野東人宣旨を蒙り馳向ひて戦けり、広嗣敗北して自刀を以て首を落す、其頚忽天に昇り空中にして赤鏡となる、見る人ことごとく即死す。豊後国鏡宮、肥前国板櫃明神等此霊をまつれり。
○ 吉備大臣は右大臣正二位なり、本朝無双の才人。元正天皇の遣唐使なり。唐土にして野馬台の文を読んとするに文議暁しがたし、時に我朝初瀬の観世音を心中に念ぜり、其時蜘蛛くだりて糸を引て教ければ容易よめりとかや、天平五年に帰朝し光仁帝宝亀六年薨じ給へり、年八十二歳。
○ 火雷神は北野天満天神なり。
中川
中川は上御霊のまへの流をいふ、鴨川を東川といひ、桂川を西川といふ、其中にありしゆへ名とす、一名京極川とも号。今の京極通寺院 の筋に川あり。藻塩草にいふ、中川は京極川なり、是御堂殿と法成寺の間を流るゝとぞ。又源氏の巻には 潜んで中川の宿にゆき空蝉と碁をかこむの事あり。
続古
此頃はながるゝ水をせき入て
木蔭すゞしき中川の宿
光俊
新続古
御祓するわが中川の大ぬさは
終によせるやあふせ成らん
寂真法師
万年山相国承天禅寺

万年山相国承天禅寺は今出川の北にあり、五山の第二にして、開基は夢窓国師 、二世は妙葩、後小松院の御宇、明徳三年、足利三代の将軍義満公の建立なり。仏殿には釈迦仏を安置し、迦葉阿難を左右にし、達磨大元の像を脇壇に安ず、祖師堂には夢窓国師の像あり、後水尾院の御再建にして同帝の神牌を安置す、三重塔は大日如来を本尊としこれも後水尾院の御再建なり、山門を円通閣といひ、池を功徳池と号し、橋を天界橋となん名づけける、庫裏の傍には毘沙門天を安す。〔霊験いちじるしくて常に詣人多し〕塔頭普光院の竹林には黄門定家卿墓あり。〔墓前に石灯籠一基あり、銘に曰貞亨三年臘月右中将為経卿建之とあり〕 法然水は塔頭松鴎軒あり。〔此地はじめは加茂の神宮寺にして百万遍の旧地なり、法然上人こゝに住給ふゆへに名とす〕
京極八幡宮
京極八幡宮は上御霊の西にあり。諸社根元記に曰、古は三条京極にあり、応仁の以後此地にうつす。盛衰記に曰、 京極寺は日吉の末社なりとぞ。今真言の僧これを守る。
出雲路の神
出雲路の神は京極の西今出川の北にあり、祭る所猿田彦命にして道祖神なり、今幸神といふ。旧地は京極の東なり。
県井戸
県井戸は洛陽の名所なり、古一条の北東洞院の西にあり。〔県宮傍にありしなり、此ゆへに名とす〕
後撰
都人きてもおらなん蛙なく
あがたのゐどの山吹のはな
橘公平女
続後撰
蛙なくあがたのゐどに春くれて
咲やしぬらん山吹の花
後鳥羽院
具足山妙覚寺

具足山妙覚寺は新町頭に有、法華宗にして、開基は日実上人なり。楼門の金剛力士は弘法大師の作なり。祖師堂には日蓮日朗日像三師の像を安置す。〔此堂は飛騨の工造立にして恰好比類なし、諸堂建立の規矩とす〕花芳塔には日蓮自筆の法華経を収む、紫印金の曼荼羅角龍の曼荼羅は共に日蓮の筆にして当寺の什宝なり。〔此寺いにしへは衣棚二条の南にあり、今妙覚寺町といふ。天正年中秀吉公の命によつて此地にうつす。又当寺に画工狩野古法眼元信其外狩野家数代の墓あり〕
卯木山妙蓮寺
卯木山妙蓮寺は寺内通小川の西にあり、右同宗にして開基は日像上人なり。古は西洞院五条にあり。柳屋仲興といふもの日像を帰依して宅地を寄附し柳寺と称す、其後大宮通四条の南にうつし、又元誓 願寺通大宮に遷、天正廿四年に 此地に移す。当寺の什宝に、祈雨の本尊とて日蓮上人の自筆法華の曼荼羅あり。後光厳院の御宇に天下大に旱す、此本尊を以て桂川のほとりに至り諸雨の法を修せしむ、勿霊応ありて大雨数日に及ぶ、故に日蓮上人に大菩薩の号を賜る。
具足山妙顕寺

具足山妙顕寺は小川の北にあり、法華宗にして開基は日像上人なり、洛陽において日蓮宗最初の寺なり。後醍醐天皇の勅願所とす。〔初は西洞院二条の南にあり、天正年中此地にうつす〕立像の釈迦仏は長三寸にして黄金仏なり、日蓮上人常に持念し給ふとぞ。蜀錦の曼荼羅、経一丸の曼荼羅共に日蓮の筆にして当時の什物なり。〔経一丸は日像上人の字なり〕
金剛山大応寺

金剛山大応寺は妙覚寺の西にあり、宗旨〔天台、真言、禅、兼学〕比叡山に属して開山は虚応和尚なり。仏殿には 釈迦仏を本尊とし迦葉阿難を脇士とす、額は大応寺と書して黄檗隠元の筆なり。後花園院の陵は坤の隅竹林の中にあり。
叡昌山本法寺
叡昌山本法寺は大応寺の南にあり、法華宗にして開基は日親上人なり。本堂の額は光悦書す。初は綾小路の西にあり、中頃一条堀川の西に移し、又天正年中に今の地にうつす。
今日庵宗旦の家
今日庵宗旦の家は本法寺まへの町にあり、千家累代の茶人こゝに住て上流と号す。〔宗旦は千利休の孫なり、宗旦の息は宗佐と号し、重代の家名とす〕
尭天山報恩寺
尭天山報恩寺は小川の西上立売にあり、浄土宗にして智恩院に属す、初は天台浄土の両宗を兼学す。開山は明泉和尚なり。又西蓮社慶誉 上人浄土の一宗と改む。本尊は阿弥陀仏にして安阿弥の作なり。当寺の什物に虎の画あり四明陶いつの筆なり。秀吉公の時聚楽亭にありて夜々声を発す、故に世人鳴虎と称す。
堀川
堀川の水上は二流あり、其一は鴨川の枝にして、上京にては人家の下を流れあるひは顕れ、一条戻橋の下にて合す是を小川といふ、又一流は鷹峯より出て今宮の東を流れ、名を若狭川といふ、共に戻橋 の下にて合し、南へ流れ、東寺を経て上鳥羽において鴨川に入。
詞花
水上はさだめてければ君が代に
ふたゝびすめる堀川の水
曽祢好忠
戻橋

戻橋は一条通堀川の上にあり、安陪晴明十二神将を此橋下に鎮め、事を行ふ時は喚で是を使ふ、世の人吉凶を此橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告るとなん。〔源平盛衰記に中宮御産の時、二位殿一条堀川戻橋の東の爪に車を立させ辻占を問給ふとなん〕又三好清行死する時、子の浄蔵父に逢んため熊野の葛城を出て入洛し、此橋を過るに及んで父の喪送に遇ふ、棺を止て橋上に置、肝胆を摧き念珠を揉、大小の神祇を祷り、遂に咒力陀羅尼の徳によつて閻羅王界に徹し、 父清行忽蘇生す、浄蔵涙を揮て父を抱き家に帰る、これより名づけて世人戻橋といふ。是洛陽の名橋なり。
小野小町双紙洗の水
小野小町双紙洗の水は戻橋艮、諸侯屋舗の庭にあり、清和水ともいふ。傍に小町塔あり。晴明水〔此所にあり、 安陪晴明密法を行ふとき、神水を得んが為祈誓によつてこゝに涌出せしとぞ〕下り松〔此所にあり、一条の下り松は是なり、古より世に名高し〕
安陪晴明の社
安陪晴明の社は一条の西葭屋町晴明町にあり、祭る所は晴明が霊神なり、古は此地晴明が居館なりとぞ。
水火天神

水火天神は堀川の北天神の辻子にあり、祭る所水火の霊神なりといふ。〔一説には天満天神なりとぞ〕
瑞光院
瑞光院は安居院の北にあり、むかしは浅野弾正の第宅なり。鎮守の神を浅野稲荷と称す、播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩其外家臣の塔一基あり。〔大石内蔵介良雄を始義臣四十六人の姓名を記す〕当院の什物に内蔵介の画像辞世の詩歌書翰等あり。
恵光山本隆寺
恵光山本隆寺は五辻の北にあり、法華宗にして開基は日真上人なり。題目の石塔は日像上人の筆なり。〔はじめ当寺は四条の西にあり、中頃西陣にうつし、聚楽亭造営の時今の地にうつす〕
桜葉宮
桜葉宮は出水通千本の東にあり、祭る所天照太神なり。むかし右近馬場に天降り給ふゆへ日降の神明と称す。
家隆山石像寺

家隆山石像寺は千本通五辻の北にあり、浄土宗にして本尊阿弥陀仏は菅公の御作なり。地蔵堂には弘法大師の作り給ふ立像の石地蔵あり。〔信ずるに感応ありて霊験いちじるし、石像寺の号これより出たり〕前上総介藤原朝臣家隆卿の塔あり。
北向山歓喜寺
北向山歓喜寺は上立売の西にあり、真言宗にして本尊歓喜天は弘法大師の作なり。当時は嵯峨帝の勅願所にして、 開基は弘法大師なりとぞ。
石神社
石神社は歓善寺の西にあり、祭る所長六尺ばかりの岩石なり、土蔵の中に安置す。旧は大内裏の境内にありしとなり。
聚楽亭の旧地
聚楽亭の旧地は一条の南二条の北にして、東は大宮を限り西は朱雀通 〔今の千本通なり〕を堺とす。太閤秀吉公天正十三年に城郭を築き、壮麗にあらずんば威を重ずる事なしとて、殿閣には七宝を鏤名木奇石をあつめ、秦の阿房宮、前漢の未央宮にもおとらざるの宝閣なり。同十六年四月行幸ありて和歌の御会御能などあり。其後関白秀次公こゝに住給ひしが、文禄四年の滅亡より楼閣こゝかしこの寺院にわかれて、今は聚楽の名のみ遺り、町の惣名となりぬ。〔聚楽組と号する町数凡百二十町あり〕
般舟三昧院

般舟三昧院は今出川通糸屋町の西にあり、宗旨〔天台、真言、律、浄土〕兼学にして、禁裏内道場と称す。開山は恵篤上人善空と号し、字は敬川謚は円慈和尚といふ。本尊は阿弥陀仏の座像にして慈覚大師の作なり。帝王歴代の神牌を安置す。後土御門院の御塔は本堂の西にあり。式子内親王の塚。〔当寺にあり。定家葛の墳と云ふ。むかし此地定家卿の別荘なり、門前の辻子を定家の辻子といふ。当院初は伏見の里指月にあり、文禄三年此地に移す〕
恵照山浄福寺

恵照山浄福寺は一条の西にあり、浄土宗にして智恩院に属す。本尊阿弥陀仏は弘法大師の作なり。開基は弘蓮社深誉上人、本堂の額は浄福寺と書して後奈良院の宸筆なり。
安穏山大超寺
安穏山大超寺は浄福寺の西にあり、右同宗にして、本尊阿弥陀仏は恵心僧都、伊勢太神宮に一七日参籠しけるに、阿弥陀の三尊空中に 現じ給ふ、則其尊形を摸して三尊を刻給へり、其時化人来りて共に作る、故に世人神明の御作といふ。
西陣
西陣といふは、明徳の頃山名細川の両執権洛中において数度合戦ありし時、堀川の西一条より北に屯するを西陣といひ、堀川より東を東陣といふとぞ。〔委は応仁記に見えたり〕
蓮台山阿弥陀寺
蓮台山阿弥陀寺は京極通鞍馬口の南にあり、浄土宗にして百万遍に 属す。本尊の阿弥陀仏は弘法大師の作なり。 開基は清玉上人。方丈には織田信長公、同信忠公の影像を安ず。同両公の墳、其外明智光 秀叛逆の時本能寺において討死の臣数輩の墓あり。〔清玉上人信長公の寵をうけられしゆゑ此所に葬る〕
華宮山十念寺
華宮山十念寺は阿弥陀寺の南にあり、右同宗にして本尊阿弥陀仏は弘法大師の作なり、開基は真阿上人。〔永享十 二年七月二日に寂す、遺命によつて鳥羽川に水葬す、年六十六、後村上帝の裔孫なり〕
広布山本満寺
広布山本満寺は十念寺の南にあり、法華宗にして開基は日秀上人なり。祖師堂日蓮上人の像は、初丹波国黒田村にあり、所の人熱病を発して死するもの多し、これ則此像の祟なりとて、櫃に入れて山中に捨たり、夫より星霜累りて知るものなし。ある時山中に読経の声あり、村民これをあやしみ山に入て窺ふに、此尊像を得たり、則同所生 福寺に安置す。其後宇津宮心覚といふものこれを奪ひ取て都に登り、市中に售ぬ。当時の日重上人これを見て、高祖の像なりとて速に買取つて当寺に安置せり。〔祈願するに霊験あらたなりとて、当宗の門徒常に参集す。一説には元三大師の像ともいふ、新著聞集に見えたり〕
浄華院

浄華院は京極通今出川の南にあり、浄土四本寺の其一なり。本堂には元祖法然上人の像を安置し、阿弥陀堂の本尊は恵心の作なり。〔当院むかしは天台宗にして慈覚大師の開基とぞ、初の地は土御門通(今の上長者町)烏丸の西にあり、内裏に近きによつて内道場と称せらる故に山号なし〕中興は法然上人より第五世向阿上人なり、俗姓は源氏にして武田安芸守時綱が子なり、旧は園城寺の住侶浄華房証賢と号し、弘安十年発心して離山あり、洛陽花開院に隠れ、其後当院 を開基す。身代不動尊〔当院に安置す、いにしへ三井寺の智光法師重病をうけしとき、安陪晴明諸神に祈りて曰、もはや命終の期来れり、徒弟の中に身代りに立べき僧ありやと問ふ。時に弟子三十六人の内聖空いう僧出て、われ師の身代になりて命を断べきといふ、其とき聖空が常に持念しける不動尊夢中に示現して宣ふやうは、汝が誠心を感じてわれ又聖空の身代に立べきと告給ふ、忽師の房智光法師も病難を免れ全身となる。今に霊験いちじるし〕
廬山天台講寺
廬山天台講寺は浄華院の南にあり、宗旨〔天台、律、法相、浄土〕兼学なり。開基は慈恵大師にして、与願金剛院と号し、中興は住心上人なり。一日化人来つてわれは唐の恵遠法師なりとて、廬山の二字を書し住心和尚に与ふ、故に廬山寺と改む。本尊は元三大師自作の像なり、南の壇上には薬師仏を安ず。〔聖徳太子の作なり、世に小屋の薬師と称す〕北の壇上には聖観音を安ず。〔伝教大師の作なり。世に船来迎観音と称す〕当寺の什物に法然上人自筆の選択集あり、又親鸞上人自筆の四句の文あり。〔是六角堂観世音より授与し給ふ四句の偈文なり〕
下御霊社

下御霊社は京極通春日〔今丸太町といふ〕の南にあり、祭る神は八所の御霊にして上御霊と同神なり。〔八所の神名は上にしるす、例祭は上御霊と同日なり〕観音堂〔社内にあり、洛陽観音巡りの第六番なり〕
行願寺
行願寺は下御霊の南に隣る。〔一名革堂 〕天台宗にして本尊十一面千手観音は長八尺の立像、行円上人の作なり。〔西国第十九番の巡礼所、又洛陽巡りの第四番なり〕加茂明神の石塔〔五輪の塔婆にして高壹丈余なり、塔前に鳥居あり、 行円上人これを建る〕当寺の開基行円上人は原鎮西の人なり、寛弘二年に皇城に遊び、頭に宝冠をいたゞき身には革服を着せるゆゑ、都の人革上人と呼べり。行円つねに千手 大悲陀羅尼を持し、良材を求め観音の像を刻んで事を願へり。ある夜の夢に壹人の沙門来り、霊木を送らんといひて覚へぬ。翌朝果して一僧来り告けるやうは、鴨社の傍に苔蒸たる槻樹あり、六斎日毎に千手の神咒を誦する声聞へぬ、むかし鴨太神宮の樹下に天降り給ふとぞ、則行円これを尋ね求め、則神官に乞うけ菩薩の像をきざみ、行願寺を営て安置す、これ当寺の本尊なり。又行円革服を常に着けるゆゑ、此寺を革堂と称す。其後行円の弟子仁弘法師、此余材を得て又尺八の像を作り、西山良峰寺の本尊とす。当寺初は一条通新町の西にあり、故に一条革堂といふ。
清荒神社
清荒神社は京極の東荒神口にあり、祭る所八面八臂の荒神なり。初は摂州勝尾山清に鎮座す、後陽成院勅し給ひて文禄年中五条坊門油 小路の西にあり、其後北闕に近からんためとて此地に移さる。〔古は此ほとりを近衛河原といふ、此宮勧請より荒神口と呼ぶ〕
本誓寺

本誓寺は河原町二条の北にあり、宗旨は親鸞聖人の弘法にして高田派なり。本尊阿弥陀仏の恵心の作にして、初は宇治恵心院にあり。本堂は秀吉公北の政所の化粧殿、堂内の画は狩野永徳が筆なり。
妙塔山妙満寺

妙塔山妙満寺は京極通二条の南にあり、法華宗にして開基は日什上人なり。永徳三年五月に建立あり、元の地は綾小路堀川の西にあり。〔今妙満寺町といふ〕 道成寺鐘〔 当寺にありこれ紀州日高道成寺の鐘なり。銘あり、兵乱によつて伽藍回禄後所々にうつし、遂に天明十六年五月に紀州新宮の某当寺に寄付す、然れども瑾あつて音響遠く至らず、故此鐘を鋳改んとて砕んとするに、大に震動し鐘より火焔出る、衆僧これに驚て此事を止て、新に一鐘を鋳たり、則此鐘は堂内に蔵む、初は龍頭の下にひゞきありしが次第に癒て今は平なり〕 中川の井〔堂前にあり洛陽七井の中なり〕
本能寺

本能寺は京極通押小路の南にあり、法華宗にして勝劣派なり。〔古は妙顕院の塔頭たりしが、日像上人より四世日斉上人勝劣の一派を興隆す〕開基は日隆上人、初の地は六角の南油小路の東にあり。〔今本能寺町といふ〕中興権大僧都日与上人筑波集といふ和語の書を著す。方丈の前の門は聚楽城よりこゝに移す。〔彫物花美なり、左甚五郎の作とぞ〕三十番神の社は原愛宕山権現の古社なり。〔瓦葺にして他に類なし〕織田信長公塔〔本堂の東にあり、天正十年六月二日 当寺旧地において明智光秀が為に自殺す、委は信長記に見えたり〕題目曼陀羅〔宗祖日蓮上人の筆なり、表具は紺地の純子に唐草の地紋あり、これを世に本能寺切といふ〕
聞法山頂妙寺

聞法山頂妙寺は三条橋東の北三町にあり、右同宗一致派にして開基は日祝上人なり、権大僧都法印にして、姓は千葉氏、下総国千葉郡 の人なり、永正十年四月十二日寂す、年八十七。当寺楼門の二天、東は持国天西は多門天にして、運慶安阿弥の両作なり。霊験新にして常に詣人絶ず。〔楼門の前に二天の拝殿あり、他に異なり〕細川治部 少輔源勝益寺地を寄付して頂妙寺と号す。初の地は新町通鷹司〔 つかさ 今の下長者町なり〕にあり、其後中御門〔今の椹木町なり〕の 北高倉御所の旧地にうつす、天正の末に又此地に遷す。
源三位頼政の旧蹟
源三位頼政の旧蹟は大炊御門〔今の竹屋町を云ふ〕京極の西にあり。
二月のついたち頃に、花またしき程に、ならよりつくりたる桜をまぜくだ物のうへにかざしてつかはしたりけるを、ひとり見んがくちをしさに、むかひなる所に桜の梢のみゆるがまだ咲ぬほどに、あるじのもとへ此造花をつかはすとて
家集
君がすむ宿の梢のさかぬ間に
めづらしかれと花奉る
頼政
かへし
みさへなりちらでやむべき花みれば
宿の梢は待れざりけり
高松神明
高松神明は姉小地新町の西にあり、此地は鳥羽院の帝長門守師行に仰て高松の内裏を造らし給ふ。〔当社は内裏の旧跡なり、今社僧これを護て神明寺宝性院と号す〕
西行水は三条坊門室町の東にあり。〔洛中の名水なり、西行上人此地に住居し、此井は楊枝を以て堀出すなりとぞ〕
曼陀羅山天性寺
曼陀羅山天性寺は京極の三条にあり、浄土宗にして本尊阿弥陀仏は恵心の作なり。織姫観音〔中将姫は観世音の化身なり、故に此像を作つて名とす〕 中将姫の像〔自作なり、本堂に安置す〕
矢田山金剛寺
矢田山金剛寺は天性寺の南に隣る浄土宗にして、本尊地蔵は満米上人の作なり。夕貌薬師〔本堂の前に安置す〕
三条橋

三条橋は東国より平安城に至る喉口なり、貴賎の行人常に多くして、皇州の繁花は此橋上に見えたり、欄干には紫銅の擬宝珠十八本ありて、悉銘を刻。其銘に曰、洛陽三条で之の橋、至二後代一化二度往還人一、磐石之礎入レ地、五尋切石之柱六十三本、蓋於二日域一石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初レ之御代奉増田右衛門尉長盛 造レ之。
檀王法輪寺
檀王法輪寺は三条橋東詰にあり、浄土宗にして本尊阿弥陀仏は恵心 の作なり。古は悟真寺と号して、良忠上人の弟子道光法師建立す。応仁の乱後荒廃に及ぶ。慶長年中袋中上人再建ありて栴檀王院と号す。〔今略して檀王と呼ぶ、袋中上人退院の後、五条橋東に隠居し袋中庵と称す、今尼住持す〕主夜神祠は開基袋中上人の勧請なり。縁起に曰、慶長八年三月十五日、袋中上人別行に入て念仏し給ふに、忽然として朱衣に青袍を着して光明の中に顕れ、上人に告て曰、われは華厳経に説給ひし婆珊婆演底主夜神なり、専修念仏の行者を擁護すべしと、則秘符を授給ふ、夫より応験新にして常に詣人多し。〔慶長以来は当寺宝蔵にあり、近年今の堂に鎮座す、鳥居は石柱にして額は有栖川職仁親王の筆なり〕 鎮守は加茂太神宮を祭る。〔当寺建立より以前の勧請なり、古鴨川洪水の時糺の社此所に流れ来る、此ゆへに鎮座し給ふとぞ〕龍王祠〔むかし鴨川の東の岸に大きなる淵あり、悪蛇すんで人を害す、一とせ旱魃の年これを斬て其霊を祭るとぞ〕袖留地蔵〔由来不詳〕三株松〔袋中上人熊野三所権現を勧請すとなり〕
瑞泉寺
瑞泉寺は三条小橋の南にあり、浄土宗にして、本尊阿弥陀仏は聖徳 太子の作なり、開基は三空桂叔和尚、 本願は関白秀次公の母堂瑞龍 院なり。秀次公追悼の為に建立し給ふ。〔則秀次公を瑞泉院殿と号す〕文禄年中に秀次公、太閤秀吉公に対して逆心の企あるよし、故に紀 州高野山に入つて自殺す、首を取つて三条河原に梟、又三十余人の妾婦并に稚子共、此所において斬罪して同穴に埋む。其後塚を築て上に截石あり、銘に曰、秀次悪逆塚文禄四年七月十五日と書す。 〔傍に石塔婆あり、妾婦三十余人の墳なり、悉く法名をきざむ、世に畜生塚といふは非なり〕
先斗町
先斗町は鴨川の西岸三条の南なり、川辺には水楼の如く軒端をつらね、坐にして洛東の風景を賞し、酣歌の英客こゝ に群す。
飛鮎の底に雲ゆく流れかな
鬼貫
六角堂頂法寺

六角堂頂法寺は六角通烏丸通のひんがしにあり、天台宗にして開基は聖徳太子なり、本尊如意輪観音は金像にて長 一寸八歩なり。〔西国十八番巡礼所、洛陽巡の三十三番〕抑此尊像は、むかし淡路国岩 屋浦に夜々光あり、漁人これをあ やしみ網をおろすに、朱の唐櫃を得たり、其櫃の上に正覚如意輪の像一体、謹上日本国之王家と書せり、よつて内裏に献るに、太子早く見給ひて、是こそ我前生七世の持尊なりと尊崇し、常に随身し給ふ。時に摂州四天王寺を造んとて材 木を所々に求らる。其頃此所を山城折田郷土車里といふ。太子此邊を徘徊しこゝに来り、清水に澡がんとて、かの尊像 を■樹にかけ置、浴すみて像を取給ふにいと重くして離るゝ事なし。其夜の夢に本尊告て曰、我太子のために持せら るゝ事七世、今又此地に因縁あり、願ばこゝにありて永衆生を利益せんと宣ふ。然るに東方より一人の老嫗来つて曰、 此傍に大木の杉あり、毎朝紫雲覆り、是こそ霊材なりといへば、太子是を見給ひ、則きらしめ他木一株も交ず六角の堂 を営給ふ。其後二百五十余歳を経て、桓武天皇都をこゝに定させ給ふ時、官使条路を極むるに、六角堂小路の中に当れり、皆是を愁しかども、太子建立精舎を他所に移さん事いかゞと沙汰しければ、俄に黒雲下りて此堂自五丈許北の方に退けり、故に事ゆへなく小路を通して都となりにけり。〔一説には高麗国光明寺に在りし尊像なり、然をかの国の僧徳胤これを迎て太子に献しともいふ〕 池坊の立花〔当坊住職の中専慶法師立花を愛し、木立興あるをば食をわすれてもとめ、深山幽谷のさかしきをもいと はず尋あるき、其心切なるを当寺の本尊感じ給ひ、立花の秘密を霊夢に授給ふ。是より代々其伝をつぎ、中興又専好と いひしより其風を改め家本とす。毎年七月七日二星の手向として、都鄙の門人方丈に集り立花の工をあらはすなり、見物の諸人群をなせり〕
錦天神社

錦天神社は京極錦小路東行当にあり、祭る所天満天神なり。鳥居の額は天満宮と書して、青蓮院尊英法親王の筆なり。拝殿の額は宝鏡 寺宮理秀尼公の筆とぞ。宗旨は時宗にして、紫苔山歓喜光寺河原院 六条道場号す、開基は一遍上人の甥聖戒上人なり、元亨三年二月十五日寂す。〔当寺の旧地は東六条本願寺の境内枳殻の馬場なり、左大臣融公住給ひし河原院を改て寺となし、六条道場とす〕千鳥が池〔当寺庫裏の後にあり、河原院にありしをこゝにうつす〕 塩竃社〔千鳥が池の中島にあり、祭る所河原左大臣なり〕抑当社は寺内の鎮守にして、古は左大臣融公を祭れり、中頃より天満宮を勧請しけるなり。
大本山円福寺

大本山円福寺は京極通四条坊門〔今は蛸薬師通といふ〕の東にあり、浄土宗深草流義の一本寺なり。〔いにしへは室町三条坊門にあり、今円福寺町といふ〕本尊阿弥陀仏は法然上人の作なり。
蛸薬師
蛸薬師は永福寺と号して、円福寺の境内にあり。〔旧地は三条室町なり、水上の薬師といふ〕本尊薬師仏は石像にして、長二尺伝教大師の作なり。〔旧比叡山の北谷にあり、又鮹薬師と号するは、旧地に沢あり、是によつて都下の人沢薬師と称せしを、後世誤つて蛸薬師といふ風俗せり。いにしへの堂の梁の銘には、三条室町水上の薬師堂に記し侍る。○鯉地蔵は堂の前にあり、由来繁げきによつて略す〕
西光寺
西光寺は蛸薬師の北隣、虎薬師は弘法の作。〔御倉堂と称す〕
長金寺
長金寺は誠心院の西向ひなり、一言堂といふ、本尊十一面観音は弘法の作。〔洛陽観音巡の其一なり〕
清帯寺
清帯寺は西光寺の西向ひなり、本尊腹帯地蔵は土仏にして行基の作なり。〔懐妊の婦人安産を祈るに霊験新なり〕
誠心院
誠心院は西光寺の北に隣る。〔俗に和泉式部といふ、古は小川一条の北にあり、御堂関白道長公の草創にして、和泉式部も此寺に入て尼となりて住しなり〕本尊は阿弥陀仏、脇壇には関白道長公の影を安置す。和泉式部の塔、軒端梅あり。〔軒端の梅の傍に俳諧師紫藤軒言水の墓あり〕
凩の果は有けり海の音
言水
誓願寺

誓願寺は京極三条にあり、浄土宗にして深草流義の一本寺なり、本願は天智天皇、開基は恵隠僧都といふ。〔初は和州平城にあり、桓武 天皇遷都の後、上京元誓願寺通小川西にうつす、専貞法師源信僧都 も暫こゝに住し、十余世の後蔵俊僧正、法然上人の法徳に帰入し浄土宗となる〕本尊阿弥陀仏は長八尺の坐像にして、仏工賢問子芥子 国両人の作なり。又春日大明神夜々影向ありて扶助し給ふ故に、春 日の神作ともいふ。〔仏面に朱字の名号あり、これ天智帝の宸筆 なり、腹内に五臓六腑あり、稀代の霊仏にして奇験古今に著し〕額は大 覚寺空性法親王の筆。〔当寺再興大施主大相国北御方佐々木京極女為二二世安楽一也と書す〕六字額は一遍上人の筆なり。堂内の壇上には天智帝の宸影、慧隠和尚の影を安ず。三重塔は元和八年の草創にして、本尊は谷薬師なり。開山堂には法然上人の像あり。釈迦堂には宝冠釈迦仏を安置す。鎮守は春日明神なり。五輪石塔は秀吉公の愛 妾松丸殿の墓なり。〔法名は寿芳院月晃盛久禅定尼と銘す、当寺再興の施主ゆへ檀那塔と称す〕辨慶石は方丈の庭には仮山の上にあり。〔いにしへは三条京極の西辨 べん 慶 けい 町にありしとなり〕 柏石は小方丈の西手洗鉢の本にあり、羽二重井は方丈の前にあり。当寺の什物に烟除仏舎利あり、弘法大師よりの伝来とぞ。又法然上人の一枚起請を美嘆す、一休和尚の筆あり。〔表具の中縁は紫地の牡丹からくさにして、古竹屋町織なり、小縁は萌黄地の宝づくし、是を誓願寺切とも、安楽庵ともいふ〕其文に曰。〔口に法然上人の一枚起請あり略之〕
伝聞法然活如来 安坐蓮華上品台
尼入道同愚痴輩 一枚起請文最奇哉
南旡阿弥陀仏
此外達磨虚堂 いらぬもの唯法然の一大事と
存奉る我等今日より浄土宗に成申候穴賢く
応仁二年二月五日 薪酬恩院主 一休判
仏御所さま
当寺の境内には紅梅数株あり、如月の頃は都下の人々こゝに来り、未開紅の艶色を賞して美観とす。
立ならぶ木もふるびたり梅花
舎羅
塔中竹林院には小堀遠州の数寄屋あり。〔これを遠州の八窓といふ〕庭中の風景絶倫なり。同長仙院庭佳境なり、世に名高し。
紫雲山極楽院光勝寺
紫雲山極楽院光勝寺は四条坊門堀川の東敲町にあり、空也堂と号す。〔表門の額空也堂と書して黄檗高泉和尚の筆なり、本堂の額極楽院 は竹内御門跡の筆跡なり〕宗旨は念仏宗と称して、本堂には空也上人自作の像を本尊とす、 脇士は地蔵毘沙門天なり、北の脇壇には坐像の阿弥陀仏を安置す、是行基の作なり。又空也上人の像あり。〔定 盛法師香炉の灰を以て作る〕南の壇上には定盛法師の像を安ず。抑空也上人は延喜帝第二の皇子なりしが、塵外の無為を楽の 志願ましくければ、遂に出家し給ひ、玉楼金殿を立いで、北山鞍馬の奥に蕭然として山居し給ふ。麋鹿夜々来つて閑坐を慰ける、上人是を憐み其声を愛し給ふ事深し、一日鹿来らず、然に平定盛といふもの遊獵して鹿を持来り、此山 において討取し由をいふ。上人大に愁傷し、其鹿を得て皮を裘とし、角を杖の頭に挟て常に携給ふ。獵者定盛も上人の法徳に帰入し御弟子と成、教化に任せ、妻子を具し、頭は有髪の俗体にして衣を着し。〔衣は天台衣なり〕瓢を叩て上人御作の和讃を諷ふて、寒中には夜々五三昧、市中などを徘徊し、浄土往生の因を勧るなり。〔今空也堂の境内に八軒あり、鉢叩と称す。徳正庵、金光庵 、寿松庵、東坊、正徳庵、利清庵、南坊、西巌庵等なり。皆定盛法師苗 裔なり、常に茶筌を製して業とす〕
上人定盛法師に示し給へる歌
山川の末に流るゝとちからも
身を捨てこそ浮む瀬もあれ
空也上人
千載
極楽ははるけき程と聞しかど
つとめて至る所なりけり
同
空也上人出誕は延喜三年なり。〔月日不詳〕入寂は天禄三年九月十一日、奥州会津黒川郷八葉寺にて往生を遂給ふ、年七十歳。〔京師より関東へ趣給ふは十一月十三日なり、此日毎歳当寺において歓喜踊躍の念仏を修す〕当寺の什宝五品あり、片破鰐口〔上人加茂社へ参籠の時、明神出現ましく、末世衆生念仏往生の証拠にとて、宝殿の鰐口を二つに引放し、左の方を上人に与へ、右の方を加茂の神殿に止給ふ〕衣替鰐口〔松尾明神老翁と現じ、上人に謁して曰、此頃の神供に般若経の法味をうけて、いまだ妙法の醍醐味を食せず、此ゆへに痩衰て風はだへを通す、上人は法花経をよく読誦せり、われに心あれや。空 也これを聞て衣をぬぎて、われ此衣を着して法花経をよむ事既に四十年、其妙香の薫り此衣にそまる、これを奉らんといへり。翁悦て衣を着し、かたちはさもあたゝかに見へける。又一つの鰐口を出して上人にあたへ、西をさして去給ふ。此衣は鹿の裘なり今松尾の社にありといふ〕鹿角杖〔由来まへに見へたり〕絵詞伝〔空也上人の伝記なり、青蓮院御門跡尊証法親王筆なり、奥は公卿の寄合書、絵は海 北友雪の筆〕御袈裟〔東福門院の御寄付なり〕
神泉苑

神泉苑は御池通大宮の西にあり。〔真言宗にして東寺法菩提院に属す〕善女龍王社は池の中島にあり。〔例祭は八月朔日なり〕二重塔は大日如来を本尊とす、池を法成就池といふ。むかし大内裏の時は、封境広大にして天子遊覧の地なり。〔拾芥抄に曰、二条の南大宮の西八町、三条の北壬生の東云々〕池辺には乾臨閣を営て、近衛次将を別当職とし、庭中には巨勢金岡石を畳て風光を貯ふ。守敏は諸龍を咒して瓶中に入。弘法大師は天竺無熱池の善女龍神を請じ、天下旱魃の 愁ひを扶て、叡感を蒙り、小野小町も和歌を詠じて雨を降し、鷺は宣旨をうけて羽を伏蹲れば、官人これを安くと捕しむ、帝御感のあまり五位の爵を賜りしも此所なり。又白河院御遊の時、鵜をつかはせて叡覧あるに、鵜此池中に入て 金覆輪の太刀を喰ふて上りけり、是より銘を鵜丸といふ。崇徳院に伝り、六条判官為義に此御剣を賜りける。祇園會もこゝに始り。弘仁三年には嵯峨帝此苑中に於て花の宴あり、是花宴の始なり。本朝文粋に源順が曰、神泉苑は禁苑の其一なり、紅林地広うして楚夢を胸中に呑、緑池水高うして呉江を眼下に縮むと書り。星霜漸累り、遂に建保の頃より荒廃に及ぶ、承久の乱後には武州の禅門築地を高うし門を堅て修造ある、其後又あれて旧跡幽なりしを、元和の頃筑紫の僧覚雅がといふ人、官に申て再興し、真言の霊場となす。北野の右近の馬場此神泉苑等は、纔なりといへども是大内裏の遺跡なり。
年中行事歌合
ちはやふる神の泉のそのかみや
花をみゆきの初め成けり
宗時
不来乎薬師

不来乎薬師は釜の座二条上る西側にあり。本尊は比叡山伝教大師一 刀三禮七尊彫刻し給ふ、日本七佛の一躰なり。 往昔美濃国横倉に一院の設け安置し奉る其頃尾張国山田郡に何某右馬允明長とて武士あり。明暮尊敬し奉しに承久三年夏五月京鎌倉の戦に所々高名有しか弋瀬川の戦に深手負既に最期に及ぶ時此薬師一人の僧と化して草をもみあたへ給ふ。 明長是を腹すれば立所に疵平愈し本国に帰りしと沙石集に見えたり又寛喜二年夏六月より寒気はげしく極寒のごとくなれば疫癘流行し死するもの世に多し然るに此薬師院主の夢に告げて宣く一切の衆生我は前に来ば諸病悉除べきにこぬかくとありしかば感涙袖に余りて世に是を触知らしむに貴餞群集し参詣の輩疫病忽平愈す後に織田信長岐阜在住のとき斎藤山城守此薬師を今の所に移すと也。夫より都鄙の貴賎数多信仰し霊験ある事委記しがたし。

