都名所図会 巻之三 左青龍再刻

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  1. 本文
          1. 三の峯稲荷大明神の社
          2. 恵日山東福寺
          3. 東山泉涌寺
          4. 新熊野観音
          5. 新熊野社
          6. 蓮華王院三十三間堂
          7. 新日吉社
          8. 智積院
          9. 養源院
          1. 宝生院
          2. 妙安寺
          3. 柿園
          4. 大仏殿方広寺
          5. 耳塚
          6. 平相国清盛公六波羅の館
          7. 小松谷正林寺
          8. 三島明神の社
          9. 継信忠信の石塔婆
          10. 阿弥陀が峯
          11. 清閑寺
          12. 歌中山
          13. 音羽山清水寺
          14. 子安観音
          15. 大谷
          16. 鳥辺野
          17. 後京極摂政良経公の墓
          18. 霊鷲山正法寺
          19. 鷲峰山高台寺
          20. 八坂法観寺
          21. 八坂庚申堂
          22. 伽羅観音
          23. 七観音
          24. 八坂
          25. 安井観勝寺光明院
          26. 牛王地社
          27. 菊水井
          28. 蛙が池の古跡
          29. 祇園社
          30. 金玉山双林寺
          31. 大谷
          32. 東漸寺 本住寺
          33. 真葛原
          34. 祇園女御の旧蹟
          35. 東山長楽寺
          36. 円山安養寺
          37. 華頂山大谷寺知恩教院
          38. 白川の水上
          39. 東三条金蔵寺御猿堂
          40. 尊勝院
          41. 粟田天王社
          42. 仏光寺廟所
          43. 華頂山親鸞聖人植髪の尊像
          44. 粟田神明宮
          45. 東岩蔵真性院
          46. 蹴上の水
          47. 日岡の峠
          48. 御廟野
          49. 吉祥山安祥寺
          50. 山科毘沙門堂
          51. 諸羽明神の社
          52. 廻地蔵
          53. 追分
          54. 音羽山
          55. 牛尾山法厳寺
          56. 山科本願寺の旧地
          57. 花山
          58. 苦集滅道
          59. 瑞龍山太平興国南禅禅寺
          60. 聖衆来迎山禅林寺永観堂
          61. 正東山若王子
          62. 霊芝山光雲寺
          63. 鹿ケ谷
          64. 住蓮山安楽寺
          65. 善喜山万無寺
          66. 紫雲山金戒光明寺黒谷
          67. 鈴声山真正極楽寺真如堂
          68. 吉田宮斎場所
          69. 長徳山知恩寺百万遍
          70. 慈照寺
          71. 北白川
          72. 山中峠
          73. 干菜山光福寺
          74. 瓜生山将軍地蔵
          75. 北山御坊親鸞聖人の旧蹟
          76. 詩仙堂
          77. 天王社
          78. 赤山社
          79. 玉山稲荷社
          80. 御蔭社
          81. 矢背の里
          82. 惟喬親王の遺跡
          83. 西方院
          84. 融通寺
          85. 魚山来迎院
          86. 小野山
          87. 梶井宮円融院梨本房
          88. 魚山勝林寺
          89. 実光坊
          90. 古知谷光明山阿弥陀寺
          91. 芹生の里
          92. 寂光院
          93. 朧の清水
          94. 比叡山延暦寺一乗止観院
          95. 日吉山王社

本文

三の峯稲荷大明神の社

三の峯稲荷大明神の社は大和大路〔伏見街道〕の南にあり。往昔人皇四十三代元明帝の御宇和銅四年二月十一日、午の日此山に出顕し給ふ。本社第一宇賀御魂神、第二素盞鳴尊、第三大市姫(以上)。田中社、四大神、此二神を併せて五座と称す。弘長三年に告あつて文永年中に併奉るなり。〔神祇拾遺〕又田中社の客人の神大歳神は鶴と化して稲の実を含んで来現し給ふ、此ゆゑに一切の鳥を献ることを忌といふ。延喜八年故贈太政大臣藤原朝臣時平三箇社を修造す。又永亨十年に社を三の峯より今の地に移すなり。上の社は宇賀御魂伊弉諾伊弉冊尊を崇奉る。二月の初午参りは和銅年中二月初の午の日出現より恒例の祭事となる。倉稲の縁によりて土器黍粟等を土産とするなり。古は神木の杉の枝ををりて帰り家に収しとぞ。

     初午をよめる
稲荷山しるしの杉を尋きて
あまねく人のかざすけふ哉
顕仲朝臣

三の峯の御注連張は毎歳正月五日なり。〔古山の半腹に瀧あり、今は水涸て小水流れ麓に至つて祓川といふ〕

捨遺
瀧の水かへりてすまば稲荷山
七日のぼれるしるしと思はん
読人しらず
稲荷行幸の時
夫木
いなり山杉まの紅葉きてみれば
たゞあを地なる錦なりけり
周防内侍

例祭は四月上の卯の日なり、神輿五基九条の御旅所より東寺南の大門を掻入て、金堂の前に神輿をすゑ、産子は神供を頭に戴て運び持て献じ、僧侶はかはるぐ出て法施し、東寺寺務の僧正をはじめ一山の衆僧は東西に列し、弦召は東のかたに警す、其厳重たる粧ひ他にならぶ事なし、是を東寺の神供といふ。近年安永三甲午年より祭礼の式再興ありて、行列の首には勅裁綸旨、弓、楯の神具かずかず列り、神輿の前後には社司の面々、騎馬にて供奉し、唐鞍の神馬三疋、其外、大幣、榊、翳、菅蓋、錦蓋等雲のごとくつらなり、巍々滔々として壮麗たる祭式なり。

恵日山東福寺

恵日山東福寺は五山の第四なり、大和大路一の橋の南にあり。当寺の開山は聖一国師、諱は辨園、駿州藁科の人なり。十歳にして天台宗を学び、十五歳にて三大部を終り、十八歳にて園城寺にて髪を剃、東大寺の戒壇にのぼり受戒せり。あるとき三井を出て野州長楽寺に行て栄朝に随ひて別伝の道をまなび、猶その奥旨を極ん事を欲し、人皇八十六代四条院の御宇嘉禎元年に入唐し、宋の径山寺無準を師とせり、斯て六年を経て仁治二年の秋帰朝せり。寛元元年花洛に登り、九条大相国光明峯寺殿下〔関白道家公〕より東福寺を賜て住職せり。弘安三年十月十六日七十九歳にて遷化す。

偈曰、
利生方便、七十九年、欲レ知二端的一、仏祖不レ伝。

遷化の日当山の竹木色を白色に変じ双樹自ら枯たり。九十四代花園院の御宇正和のはじめ、謚を聖一国師と宣旨を賜る、凡国師の号は是よりはじまるとぞ。〔当寺の号は南都東大興福の両号を合せて用ゆるなり〕山門には妙雲閣といふ横額あり、足利将軍義持公の筆なり。仏殿の本尊は釈迦仏。法堂は潮音堂と号す、額は無準の筆なり。天井の蟠龍は初め兆殿司の筆なり。此人大道和尚の弟子にして、諱は明兆、字は吉山なり。凡書る絵に奇妙ある事記に遑あらず、龍を画ば天にとび、不動をかきては火炎もえけるとかや。或とき龍を画にいまだ生身の形を見ず、願わくば仏神生身の形を見せしめ給へと持念せるに、思園池の水漲上り生身の大龍目前に出現せり、其形をうつして天井に画、兆殿司滅後に画龍とび出て登天すと言伝ふ。其後狩野光頼是を画、今の蟠龍これなり。当寺の涅槃像は応永十五年六月殿司五十七歳にして画けるよし脇書にあり。本朝無双の像なれば世に名高し。其外当寺に図画多し、一生画ける絵具は神感を得て稲荷山の北より出る、今絵具谷といふ。方丈の額は張即之の筆、選仏場の額は径山無準の筆なり。本尊は文珠菩薩聖観音を安置す。当寺の鎮守は成就宮といふ。〔石清水、加茂、春日、稲荷、山王、五社を勧請す〕光明峰寺殿の建立なり。東司の頭は張即之の筆。十三重の石塔は比良明神の告によつて藤丞相道家公これを建る。円栢の古樹は開山国師宋国より携来る、厨の高梁も唐木にしてこれらも異国より渡る。常楽庵の額は光明峰寺の筆、謚聖一国師の勅額は持明院の宸筆なり。祖堂の中央は達磨、百丈禅師、臨済禅師の像を安置す、後壇には光明峰寺殿下の影、径山無準禅師の像あり。伝衣閣には毘沙門天、薬師、観音を安ず、是開山の昭堂なり。〔当寺建立の初より回禄の災かつてなし〕通天橋の額は普明国師の筆、橋下の渓を洗玉■といふ、此ほとりに楓多し、秋のすゑ紅錦の色をあらはしければ、洛陽の奇観となる。十月十六日は開山忌なり、俗に辨当納とて群参す。五大堂には不動明王を安ず、正月廿八日火災除滅の札を出す、文字■是なり。万寿寺は当山の北門三聖寺の内にあり、昔は六条坊門にあり、五山の列第五なり。

東山泉涌寺

東山泉涌寺は大和大路一の橋の東にあり。当寺の初は弘法大師の開基なり、其後文徳帝の御宇斉衡三年に、左大臣緒嗣公再建あつて天台宗となし、仙遊寺と号す、此山に仙人遊びしゆゑなり。中興の開山は俊■法師、号は我禅。それより以来天台真言禅律の四宗を兼学す。当山の麓に霊泉涌出しければ、号を泉涌寺と改む。抑俊じやう法師は肥後国飽多郡の人なり、仁安元年八月に誕し、四歳にて天台池辺寺の珍暁が弟子となり、十八歳にて落髪し、十九歳にして太宰府の観音寺にて具足戒をうけ、三十三歳にて律宗を伝んため宋国にわたり、四十六歳にして嘉定四年二月廿八日帰朝せり。建保六年に和州の刺史中原信房が崇敬によつて、我領地泉涌寺を寄附せり、夫より当寺に住職して、後堀川院の御宇嘉禄三年閏三月八日六十二歳にして遷化せり。天子の官寺となる事は、八十六代四条院を権輿とせり。此帝降誕の時我禅々々と宣へり、俊じやう我禅和尚再生して天子の位に昇り、四条院と出誕し給ふよし、人の夢に見えけるとぞ。是より以来代々の帝当山へ葬り奉る、陵は前帝神主殿の前にあり。仏殿の本尊は弥勒釈迦阿弥陀の三尊を安置す。東山といふ額は張即之の筆なり。舎利殿の本尊は仏牙の舎利なり、二重の金塔に安置す。抑此仏牙の由来を尋に、仏涅槃に入給ふ御時、羅刹足疾鬼ひまを窺ひて仏牙を掠奪たりしを、韋駄天降伏をくはへ取とゞめ、昼夜に敬て身を放し給はず。然して仏滅後一千六百余年を経て、大唐の白蓮寺道宣律師、戒香薫修の威徳冥感にも通じけるにや、韋駄天かたちを顕し三皈八戒をうけ得て、其報恩に此仏牙をさづけ給へり。夫より人間に伝り白蓮寺に納め、金閣の宝函に秘しおけり。日本に渡り給ふ事は、当山中興の開基俊じやう法師の末弟湛海、我師の宋国に渡りし芳跡を慕ひて白蓮寺に詣し、赤栴檀を供じて仏牙を恭礼し、仰信のあまり窃に舎利を懇望のよし述けれども、叶はずして空く本朝に帰しが。猶志願やむ事なく、かさねて入唐し、二階の楼門三重の塔婆をかまへて、舳艫を滄溟にうかべ、事ゆゑなく紅隠軍に至りしかば、白蓮寺の修造成就し、大衆等甚深の志を感じ、其徳の凡人にあらざる事を知りて、酬答たゞ来賓に任すべきよし衆命一同なりしかば。是以万里渡海の本懐は偏に仏牙の求請にあり、二度来朝の素願、しかしながら舎利の利益を思ふよし具に述ければ、忽仏牙の附属をゆるしけり。歓喜の涙をおさへて帰帆の纜をとき、ことゆゑなく彼御舎利を本朝にうつし、当寺の本師と崇奉る。観音堂の本尊聖観音は、玄宗皇帝楊貴妃に別れ給ひて、追善のため妃の貌をうつして作り給ふ。補陀落山の額も此帝の筆なり。〔洛陽観音巡りの其一なり〕

新熊野観音

新熊野観音は弘法大師の作なり、西国巡礼観音の其一なり。

新熊野社

新熊野社は後白河法皇の御願にして、紀州熊野三所権現を勧請せり。

蓮華王院三十三間堂

蓮華王院三十三間堂は、後白河院の御願として備前守平忠盛奉行し、千体御堂を建立す。〔堂東向、南北六十六間、二間を隔て柱を立たれば三十三間堂といふ〕本尊は千手観音の坐像にして、御丈八尺、作は康慶なり。二十八部衆おのおの壇上に安置す。千手観音一千体は堂内左右にまします、運慶湛慶の両作なり。抑後白河法皇は常に頭痛の御悩ましませば、医療さまぐなりしかども其験更になし。ある時熊野に御幸ありてこれを祈らせ給ふに、権現告て宣ふやうは、洛陽囚幡堂に天竺より渡る妙医あり、かれに治療を受給へと、是に依て永暦二年二月廿二日因幡堂に参籠して、ひたすら祈給ふに。満ずる夜貴僧忽然として又告ていはく、法皇の前生は熊野にあつて蓮華坊といふ人なり、海内を行脚して仏道を修行す、其勲功によつて今帝位に昇れり、されども前生の髑髏いまだ朽ずして、岩田河の水底にあり、其頭より柳の樹貫て生る、風の吹毎に動揺す、則今身に響て此悩をなせり、急ぎかの頭を取上なば苦悩を免るべしと、香水を以て法皇の頂に洒と思召て夢覚たり。頓てかの所を見せしめ給ふに、河底より髑髏を得る、則これを観音の頭中に籠、三十三間堂を建立して蓮華王院と号す。かの柳の樹を堂の梁となさしむ。〔以上平等寺縁起の意〕又或説には、鳥羽上皇得長寿院を御造営ありて、一千体の観音を安置す、後改て蓮華王院と号すともいへり。〔築地の瓦には秀吉公の桐の御紋あり、門外の下馬札は佐々木志津磨が筆なり〕堂前に夜泣泉あり、傍に池ありて春のすゑより初夏に至り燕子花咲乱れて、濃むらさきの色池の面に麗しく、京師の騒客廻りの茶店に宴を催して終日これを美賞す、当寺の佳境なり。大矢数の濫觴は、新熊野観音寺の別当栴坊射術を好みて、八坂の青塚の的場へ通ふ、帰さに当寺の後堂に休み射初しなり。夫より連年諸侯の家臣出て射術の誉を争ふ。当所より通矢の検証出で、其一を蒙るものには金銀の麾を渡す。尾州よりは星野勘左衛門八千箭を通し、貞享三月四月廿七日紀州和佐台八郎総矢一万三千五十三通矢八千百三十三数にして一を得たり。

新日吉社

新日吉社は後白河院の御勧請なり、旧地は是より南にして日吉坂〔今のすべり石ごえなり〕といふ所なり。応仁の乱れに破壊す。其後妙法院尭然法親王再建し給ふ。例祭は毎年四月廿九日〔近年五月九日に改して又前の通に成〕行る、妙法院宮御領の神事なり。

智積院

智積院は宗旨真言新義なり、本尊は不動明王、興教大師の作なり。開山は正憲法印、当寺は豊臣秀吉公(御子)棄君早世の為に祥雲寺を草創ある。紀州根来寺滅て後覚鑁派の断絶により、新義の徒是を歎て御当家に愁訴す、是に依て祥雲寺を賜て智積院と号し、新義派の学室と成。

養源院

養源院は宗旨天台なり、本尊阿弥陀仏、恵心の作。当院は浅井備前守長政の草創にして、開山は盛伯法印なり。

修成院の本尊は元三大師、傍に観喜天を安ず。

宝生院

宝生院は本尊毘沙門天なり。後白河法皇の宸影を安置す。

妙安寺

妙安寺は蓮華王院南の門外池田町の端にあり、虚無僧の本寺とす。西国三十三州これに属す。達磨普化ともに祖師とす。

柿園

柿園は妙安寺の南にあり、松永貞徳住み給ひし遺跡なり。

貞徳家集曰、
大和大路のひんがし、大仏殿の南に地を申請て、柿園と名づけ、花を見実のなるを植て、超子昂
が書し法華経を梓にちりばめ、千部すりて八千蔵になぞらへ、報恩蔵を造り納めらる。内陣の戸
びらに聖徳太子達磨大師の御影、人丸貫之定家紫式部の図像をうつし、妙法院二品法親王(尭
然)讃をさせ給ふを、四ひらの戸にはりて、吟花廊をつたひ、蘆の丸屋をかまへ。やよひ中の八
日はつき廿日に東光院殿玖山公泰勝院玄旨法印の法楽の会たえずなん。(下略)

〔貞徳翁、童名勝熊といひしとき、九条殿下へまいり、源氏物語を読せられ、孟津の御抄書写御ゆるし、御所にて全部功終ければ、御序跋かしこき御筆を染られける。源氏のよみくせ、すみにごり、三箇の大事、止観の御説まで相承して、後妙蓮寺じにて竟宴の連歌執行しに、殿下ならせおましおまして、

御発句に
花に猶道分そへんゆくへかな 九条殿下
春はかすみにひかれぬる袖 勝熊
鷹とはふすゑ野のきゞす鳴すてゝ 玄旨法印
大仏殿方広寺

大仏殿方広寺は、後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は廬舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向にして、東西廿七間南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置、長は壹丈四尺なり。門の内には高麗犬あり、金色にして長七尺。〔これは豊国のやしろにありしといふ〕廻廊は南北百廿間東西百間なり。堂前に建る石灯籠には列国諸侯の名を刻む、仏殿の敷石又正面石垣の大石には国々出所の名或は諸侯の紋所等あり、廻廊の外には桜紅葉を交へて植ゑたり。慶長七年十二月四日には仏殿回禄す、同十五年右大臣秀頼公ことごとく再営ある。寛文二年本尊銅像を改て木像とし給ふ。太閤秀吉公の石塔婆は仏殿の南にあり、豊国崩れて後これを営しといふ。塔前の石灯籠には慶長十年九月とあり。撞鐘堂は南廻廊の外にあり、四間四方にして柱の数は十二本なり。鐘の高さ壹丈四尺、指わたしは九尺二寸、厚さ壹尺。

耳塚

耳塚は二王門の前にあり、文禄元年朝鮮征伐の時、小西摂津守加藤肥後守を大将として数万の軍兵を討取、首を日本へわたさん事益なければみゝきりはなきしりて送り、此所に埋、耳塚といふ。

平相国清盛公六波羅の館

平相国清盛公六波羅の館は、今の大仏殿の地を中央にして、北は五条南は七条を限り、大和大路を門前とす。平正盛忠盛重代の地なり。清盛公に至つては境地広大にして、殿舎には珠玉を鏤め、楼閣には香木を聚む、南の方に大きなる池あり、傍に水殿を造る、これを池殿といふ、凡亭宅の数百七十余宇におよべり。内府重盛公の居宅小松殿まで二十余町の間殿宇建続けり、其外家臣眷属の住所五千二百余宇ありとぞ。平家滅亡の後も此第ありて、北条泰時同時房等こゝに来つて政道を行ふ。正慶二年五月千種中納言忠顕赤松良忠大軍を以て六波羅を攻破る、北条時益仲時後伏見上皇新帝を供奉して関東へ逃趨る、此時六波羅の館断絶す。

小松谷正林寺

小松谷正林寺は大仏殿の東北にあり、宗旨は浄土、開基は恵空上人なり、本堂は殿舎造りにして九条殿よりの御寄付とぞ。壇上には円光大師の像を安置す、南の方に阿弥陀堂あり、楼門の額は九条関白尚実公の御筆なり、明和年中にかくる所なり。此地はむかし月輪禅定兼実公の御所なり、小松殿といふ。法然上人に此殿の御堂におはしましけると黒谷伝記にあり。千年ふる小松のもとをすみかにて無量寿仏の迎へをぞまつ源空上人此所より西人家の北の方に谷あり、是を小松谷といふ、小松内大臣重盛公の山荘にして、燈籠堂の地なり。〔委は盛衰記にあり〕

三島明神の社

三島明神の社は馬町北側にあり、当所の氏神にして、産子は一代うなぎを禁ずといふなり。

継信忠信の石塔婆

継信忠信の石塔婆は、馬町北側民家のうしろにあり。石の大塔二基、銘に曰永仁三年二月二十日願主法西とあり、一基は銘なし。

阿弥陀が峯

阿弥陀が峯は豊国の後の山なり。慶長三年豊臣秀吉公を此峰に葬り奉る。

清閑寺

清閑寺は小松谷の艮にして佐伯公行の建立なり、本尊は千手観音の立像、菅神の御作なり。高倉院の陵当寺にあり。
〔治承五年四月十四日新院崩御、清閑寺にて煙となしたてまつるとき
新古
常に見し君が御幸をけふとへば帰らぬ旅と聞ぞ悲しき
法印澄憲
小督の墓は陵の左のかたにあり、高倉院の御寵愛を蒙る桜町中納言の女なり。〔委は平家物語、盛衰記にあり〕

歌中山

歌中山は清閑寺の北、音羽山の間をいふ。寺説むかし清閑寺の真燕僧都といふ人住ける。ある夕ぐれ門外にたゝずみて行かふ人を見ゐたる折ふし、髪かたちめでたき女のたゞひとりゆくを見て、忽ち愛心おこりければ、物いひかくべき便りなくて、清水への道は何れぞと問ければ。女見るにだにまよふ心のはかなくてまことの道をいかでしるべきといひ捨て頓て姿を見失ける、女は化人にて侍るにや。其歌読所を歌の中山といふ。

音羽山清水寺

音羽山清水寺の本尊十一面千手千眼観世音菩薩、脇士は毘沙門天、地蔵菩薩なり。抑当寺の来由を尋るに、大和国小島寺の沙門延鎮、宝亀九年の夏、霊夢を感ずる事ありて、木津川の辺りに行て見れば、一ツの流に金色の光あり、源を尋て直に登るに一流の瀧なり、傍をみれば茅ふきたる庵に白衣を着せる老翁あり。延鎮此庵に入て、御身はいかなる人ぞ。翁の曰、我名は行叡、此地に住事は既に二百歳に及べり、常に千手真言を誦ふ、我貴僧を待こと久し、東に行んとおもふ志あれば、御身しばらくこゝに住給へ、我此霊木を以て大悲の像を作り、精舎を建ん願あり、若遅くかへりなば、御身我にかはりて此ねがひを成就し給へといへり。延鎮もとより夢の告あれば、辞する事なく翁の心にまかせける。大いに悦て翁は東に向ふて庵を出たり。夫より延鎮此所に住めり。或時山科の東の嶺にて、かの翁の履を拾へり。延鎮おもへらく、さてはかの翁は大悲の応現ましくけるよと、ありがたくいよく大悲の尊像を安置せんと、ねがひ有ながらちからたらずして年月を送りしに。延暦十七年に将軍坂上田村丸、産婦のために鹿を猟して音羽山にわけ入、かの草庵に至れり。延鎮田村丸に逢て翁のしめせし事を告る、田村丸渇仰の思ひをなし、屡延鎮の相好を見るに、神仙の如し。是即大士の化現ならんと信心いやまし、家に帰て妻女にかたれり。妻の曰、わが病を治せんとて多くの殺生をなす、此罪いたつてふかゝるべし、其教にまかせて大悲の尊像を安置し奉らば、いかばかりの利益なるべしと。夫婦心をあはせて観音寺を建て、延鎮に寄附せん事を約す、又行叡より授りし霊木を以て観音の像を作らん事を願ふ。延鎮其夜夢中に、十一人の僧来て大悲の像を作る、長八尺十一面四十臂の千手観音なり、造り終つて十一人の工僧行方を知らず。夢覚て見るに赫奕たる尊容現じ給ひて目前にあり。当寺本尊是なり。夫より仏殿を建んと思ふに、此地険岨にして尺地もなかりければ、いかゞと心憂かりしに、其夜多くの鹿きたりてやすらかに平地になせしかば、仏殿を造りて大悲の像を安置し奉れり。〔鹿間塚は此由縁なり〕脇士地蔵毘沙門天は延鎮法師の作なり。田村丸延暦二十年に詔をうけて、東夷征伐の時、此本尊に祈りしかば、観世音地蔵毘沙門天彼戦場に現じ給ひて、ことごとく退治し給ふ。同廿四年に田村丸太政官府の宣旨を蒙りて堂塔を建立し、勅願所となし、又大同二年紫宸殿を給ひて伽藍となし、観音寺を改て清水寺と号せり。奥の院の本尊は千手観音の立像なり。此地は延鎮法師草庵の跡なりとぞ。阿弥陀堂は瀧山寺と号す、本尊は阿弥陀仏の坐像を安置す。文治四年五月十五日、法然上人に瀧山寺にて不断常行念仏を開闢し給ふ、今に退転なし。朝倉堂は越前国司朝倉弾正貞景是を建立す、田村堂には田村将軍、鈴鹿権現、行叡、延鎮等の像を安置す。梟水は中門の西にあり、霊泉にして地中より涌出る事寒暑に絶ず。地主権現のやしろは大己貴命なり、例祭は四月九日、清水坂八坂郷の祭なり。当山はむかしより桜の名所にして、春も弥生の頃は花咲、一入にかほりて、さながら雲と見れば雪と散りて、瓢客のこゝろを動し盃の数そひて、歌よみ詩つくりて、たはめる枝くに短尺むすびつけしも、春色の風流なり。音羽の瀧は奥之院の下にあり、瀧口三すじ、西のかたへ落て、四季増減なし。

新古今
音羽山さやかに見する白雪を
明ぬと告る鳥の声哉
高倉院
家百首
みるまゝに清水山の瀧津せは
心すみますものにぞありける

為盛爪形観音は、悪七兵衛景清爪をもつて千手観音を石面に彫しなり。景清守本尊も傍の庵室にあり。

子安観音

子安観音は車舎馬止の南にあり、光明皇后孝謙帝を泰産し給ふとき、天照太神より授かり給ふ一寸八歩の観音なり。今本尊の腹内にこむる。

大谷

大谷は本願寺の廟所なり、当山初めは智恩院の境地にして、寺中崇泰院にその遺跡あり。慶長年中に此ところにうつし、則旧号を取て大谷と称す。当寺開山親鸞聖人の伝記に曰、東山西麓、鳥部野の南辺、延仁寺じに奉レ葬、この由縁をもつてこゝに遷と見えたり。阿弥陀堂西面にして、堂内に龍谷山といふ額あり。〔寂如上人の筆なり〕廟所はその東にあり、明著堂の額あり。〔同上人の筆なり〕対面所の庭上南のかたに石蔵あり、当寺の什宝を蔵むる所となり、俗にこれを窟といふ。〔大谷より清水へいたる細道を延仁寺辻子じといふ〕

鳥辺野

鳥辺野〔或は山ともいふ〕北は清水坂、南は小松谷に限る、むかしより諸宗の墓所なり。

玉葉
分きつる袖の雫か鳥べのゝ
なくくかへる道柴の露
俊成
後京極摂政良経公の墓

後京極摂政良経公の墓は大谷の北側岸の上要法寺領にあり、世人誤て源義経の墓といふ。近年書家烏石先生碑の銘を建る。

霊鷲山正法寺

霊鷲山正法寺は往昔伝教大師の開基にして、山門の別院なり。中興国阿上人住給ひて宗旨を時宗と改む。本堂は釈迦仏を安置す、阿弥陀堂の本尊は歯仏と号す。〔此阿弥陀仏は笑ひ給ふ相好にして、御口よりむかふ歯見ゆる故、世に歯仏の如来と号す〕天照太神宮は本堂の東廊下の上にあり。〔山下の念仏堂は法然上人住給ひて、別時念仏を修し給ふ旧跡なり〕夫国阿上人は大菩提心にして慈悲ふかく、常に伊勢太神宮へ足駄をはきて参宮す。ある時道中に女の骸骨あれば、是を憐て葬通り給へり。太神宮化して上人の心を例給ひ、慈悲心より出し重穢はくるしからずと神勅あれば、やすくと参宮し給ふ、故に参宮の人は首途のまへ、当寺に参ぬれば忌穢をのがるゝとぞ。当山の坊舎はみなく絶景なり、洛陽の万戸、鴨川がは大井川の二流、愛宕あらしの峰々、淀山崎の通船まで、書院より坐にして眼の下に遮る、洛中の集会遊筵は此院々を借りて饗応す。

      雪の朝霊山と申ところにて眺望を人々読けるに
家集
たけのぼる朝日の影のさすまゝに
都の雪は消みきえずみ
西行
鷲峰山高台寺

鷲峰山高台寺は、慶長年中に太閤秀吉公北政所御建立の菩提所なり。古は雲居寺にして自然居士住給ひける、宗旨は禅(済家)。中興開基は三江和尚なり。仏殿の本尊は釈迦仏、迦葉、阿難を安置す。達磨大師の御厨子は政所公の御車を用ひらる。方丈の唐門は秀吉公の船楼をもつて営しといふ。客殿南向にして、襖の画は土佐光信、狩野永徳、弘意了渓等なり。彫物彩色美麗を尽せり。本尊は千手観音を安置す。小方丈には秀吉公の詠給ひし和歌十首を額にかくる、聖護院道澄法親王の御筆なり。開山堂の額は重関と書して雪月堂の筆。天井には政所公御車の上屋を用ひらる、三江和尚常光院殿の像を安置す。祖堂よりの廊下を臥龍といふ、雪月堂の額あり。これに登れば秀吉公北政所の御魄舎あり。長押に三十六歌仙をかくる、画は土佐光信、和歌は八条智仁親王の筆なり。其外内張の画は狩野古右京の筆多し。山上の傘亭は千利休が好む所なり。岩栖洞は艮の山腹にあり、古の岩栖院の旧跡なり。当寺は大木の桜数株ありて、妖艶たる花の盛は園中に遊宴を催し、春を惜むのともがら多し。又秋の頃も萩の花いみじうみやびやかにいろへて、衆人のこゝろを動す、是当境の佳観なり。〔姥桜は山下の坊中にあり。天満宮は其南に隣る〕

八坂法観寺

八坂法観寺は上宮太子の草創なり、古は楼門伽藍鎮守等厳重たり、破壊年経て今纔に残る。五重塔一基、本尊は〔大日、釈迦、阿しく、宝勝〕東のかたに太子堂あり、北のかたの小堂には薬師如来、辨財天、歓喜天を安置す。むかし浄蔵貴所此寺に住す、あるとき塔大いに傾く、浄蔵塔前に坐して持念す、朝にこれを見るに塔直にして元の如し。〔元亨釈書の意をとる〕

八坂庚申堂

八坂庚申堂は塔の西にあり、大黒山金剛寺延命院と号す。本尊青面金剛にして長三尺五寸、大宝元年正月七日庚申に降臨し給ふ、日本三庚申の其一なり。〔摂州四天王寺、江戸浅草〕脇壇に聖徳太子、大黒天を安置す。

伽羅観音

伽羅観音は高台寺の南、霊山道にあり、青龍寺と号す。本尊は聖観音長五尺の立像なり、伝教大師の作にして、伽羅を以て彫刻す。脇士は地蔵毘沙門を安置す。洛陽観音廻りの其一なり。

七観音

七観音は庚申堂の北一町ばかりにあり、宗旨は真言にして、本尊は七体の観世音なり、則七観音院と号す。中尊には如意輪観世音、弘法大師の作なり。聖観音、千手、准胝、十一面、馬頭、不空羂索等の六体の作は春日がなりとぞ。洛陽観音廻りの其一なり。

八坂

八坂といふは、北は真葛原、南は清水坂までの惣名なり。其中に八ツの坂あり、祇園坂、長楽寺坂、下河原坂、法観寺坂、霊山坂、山ノ井坂、清水坂、三年坂等なり。

安井観勝寺光明院

安井観勝寺光明院は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇徳天皇の后妃阿波内侍此所に住せ給ふ。天皇保元の乱に讃岐国へうつりましくて、御形見に束帯の尊影御随身二人の像を画て、かの地より皇后に送り給へり。其後天皇〔讃岐院とも申す〕配所松山に於て大乗経を書写し、和歌一首を添給ひて都の内に納めんとて送り給ふ。

浜千鳥跡は都にかよへども
身は松山にねをのみぞなく

讃岐院然るを少納言入道信西奏しけるは、若咒咀の御心にやとて御経をば返しければ、帝大に憤り給ひて、大魔王となつて天下を朕がはからひになさんと誓ひて、御指の血を以て願文を書給ひ、かの経の箱に奉納龍宮城と記し、堆途といふ海底にしづめ給ふに、海上に火燃て童子出て舞踏す。是を御覧じて所願成就すと宣へり。夫より爪髪を截給はず、六年を経て長寛二年八月廿六日に崩御し給ふ、御年四十六、讃州松山の白峯に葬り奉る。〔以上保元記に見えたり〕夫より御霊此地に来て夜々光を放つ、故に光堂ともいふ。然るに大円法師といふ真言の名僧、此所へ来つて参籠す。崇徳帝尊体を現じ往事の趣を示給へり。大円これを奏達し、詔を蒙りて堂塔を建立し、かの尊霊を鎮め奉り、光明院と号しける。仏殿の本尊は准胝観音なり。御影殿には後水尾院の宸影、明正院並に東福門院の尊牌を安置し奉る。又弘法大師像あり。奥の社は崇徳天皇、北の方金比羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし。崇徳帝金比羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生霊験いちじるしとぞ見えにける。当寺の門前を新更科と号し、中秋には洛陽の騒客こゝに集りて東ひが山しやのま月を賞す。今は家居繁く建ならびて風景を喪ふ。

牛王地社

牛王地社は下河原の南にあり、祇園牛頭天王、播州広峯より初て鎮座し給ふ地なりとぞ。祇園百度参りは本社より此社迄詣し、歩の数を運ぶ事昔よりの例なりとかや。下河原を百度大路といふ名あり、旧記に見えたり。

菊水井

菊水井は同所東方にあり、えい泉にして茶に可なり、菊澗の下流此ほとりにあり、故に号るとぞ。〔菊澗のながれに石橋をかくる、是より安井境内辨財天の社の前を通じ、建仁寺を過て鴨かも川がはに入〕

蛙が池の古跡

蛙が池の古跡は、下河原の西安井惣門通民家の奥にあり、むかし此地に妙法院御門跡尊性法親王性恵法親王住せ給ふ、これを小坂殿といふ、四条の南なれば綾小路宮とも号す。〔慶運が往生秘解に曰〕綾小路と申は後高倉の皇子天台座主にそなはりましませしが、おさなくましませし頃、住給ひし小坂殿の棟に鴉のむれゐて、御池の蛙をとりくひけるを悲しき事に思したり。〔徒然草に曰〕綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、彼ためし思ひ出られ侍しに、誠や烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じ悲しませ給ひてなんと人の語りしこそ。〔小坂殿の地未レ考、又長楽寺の隆寛律師を小坂房といふ、かの辺なるか、後考あるべし〕

祇園社

祇園社は下河原を南面とし、鳥居は石柱にして、感神院といふ竪額あり、照高院道晃親王の筆なり。西南の楼門には御随身います。神殿の中央は大政所〔牛頭天王、素盞鳴垂跡〕東の間は八王子〔三女五男〕西の間は〔稲田姫、本御前〕抑祇園牛頭天皇を愛宕郡八坂郷感神院に勧請せし濫觴は、聖武天皇の御宇天平五年三月十八日、吉備大臣唐土より帰朝の時、播磨国広峯に垂跡し給ふを崇奉れり。其後常住寺の十禅師円如上人に神託あつて、帝城守護の為貞観十一年に遷座し給ふなり。中臣秡抄に曰、清和天皇貞観十八年、疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。神輿を置所をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神殿とす、祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ、後人又祇園の名を加へけり。〔続古事談に曰〕祇園の宝殿の中には龍穴ありとなん、延久の頃梨本の座主〔天台梶井御門主〕其深さをはからんとせられければ、五十丈におよびてなほ底なしとぞ。美御前は素盞鳴の御子なり、後見殿は大己貴命と申、其外摂社末社は図画に見えたり、元山大師は神殿東の庇の間にありしが、安永七年絵馬堂の西にうつす。〔日本略記に曰、天延元年五月七日以二祇園一為二天台別院一〕薬師堂は観慶寺と号す、本尊は薬師如来、作は伝教大師なり、陽成院の勅願所として開基は円如上人にとんいる。〔当寺の鐘楼に撞木なし〕祇園御霊会六月七日十四日、山鉾の行粧祭礼の礼式、其外五月廿九日六月十八日の神輿洗ひ等、世の知る所なれば委く記するに及ず。凡洛陽の祭礼多しといへど、此会は殊に奇観のかずくしければ、皆く見つくす人稀なり。臨時祭は近年三月十五日に執行あるなり。〔古は六月十五日にして、走馬勅楽東遊御幣を感神院に奉らるよし、日本略記に見えたり〕けづりかけの神事は、元朝寅の刻なり、天下安全の御祈祷なり。

金玉山双林寺

金玉山双林寺は高台寺の北にあり、古は天台宗の別院にして伝教大師の開基なり、至徳年中国阿上人移住して時宗と改む。本尊は薬師如来にして伝教大師の作なり、鎮守は天照太神宮、東の丘にあり。西行の庵西行の塔あり、此所に幽居し給ひ、建久九年二月十五日に入寂し給ふなり。当寺の桜は西行法師植給ひ、つねに愛したまふとぞ。性照の塔は平判官康頼入道なり、此ほとりに山荘ありて遠流より帰洛の後、やがてこゝに籠居してうかりし昔を思ひやり、宝物集といふ物語を書けるなり。〔頼康より浮世に尊む宝をあつめて辨し、真の宝は仏の道より外なしと、諸経を引て仏経に入らしむるの書なり、三巻あり〕頓阿の塔あり、はじめ四条道場金蓮寺にすんで、後は双林寺に閑居し寂し給ふ。〔草庵集は此地にて撰し給ひしといふ〕当寺の院々も風景ありて洛陽交游の勝地なり、春秋ともに酣歌の声間断なし。〔近年都鄙の騒人文塚となづけ、此地に墳塋をいとなむ事多し、洛東の佳境を費し墳寺となすこと薄行の至りにして、大なる不韻なり〕

大谷

大谷は双林寺に隣りて、艮にあり、東本願寺の祖廟なり。阿弥陀堂の本尊は安阿弥みの作、親鸞聖人の廟塔は後の山腹にして、墳上に虎石あり、石の形虎に似たれば名とす。此石はじめは開山聖人往生の地、柳馬場押小路虎石町に有、秀吉公の御時伏見城中に移し給へり、其後かの地より又こゝにうつす。聖人の御墓ははじめ東本願寺の境内七条でうの北にあり。〔世の人旧地を御墓町と呼ぶ〕夫より此地に遷して元禄年中に造営あり、廟前の荘厳みやびやかに微妙見えたり。〔大谷の名義は初めに載るごとく、花頂山の旧号をもつて名づくるなり〕此地にも桜多くして弥生の頃は貴賎群をなせり。

東漸寺 本住寺

東漸寺、本住寺は、大谷の南より登りて山腹にあり、共に日蓮宗にして本能寺の末派なり。

真葛原

真葛原は祇園林のひがし、知恩院の南をいふ。

祇園女御の旧蹟

祇園女御の旧蹟は双林寺じ門前の北にあり。〔東西八間南北五間〕此地を耕せんとすれば崇ありとぞ。

東山長楽寺

東山長楽寺は大谷の北に隣る、はじめ開基は伝教大師しにして、こゝも天台の別院なり。当山の致景は唐土の長楽寺に似たるとて斯号るとぞ。後は国阿上人住持して時宗とあらたむ。本尊は十一面観音なり、伝教大師唐土より帰朝の折から、海上において龍神形をあらはし、頭に観音の像を戴て来る、大師礼拝渇仰し給ひければ、忽然としてかの尊像衣の袖に飛来し給へり、当寺の本尊是なり、台座の下の蟠龍は大師の作にしてこの謂なり。〔以上縁起に見えたり〕辨財天の社あり、この神形も大師製作ありて鎮守とし給ふ。傍の庭造は相阿弥の作にして、世に名高き勝地なり。夫当山は洛東第一の風景にて、鳳城九陌大路小路、北は加茂二葉山大宮森のもより、南は鳩の峯淀の川瀬をゆきかふ舟まで、眼中烏精の客とぞなる。蓮華水は、隆寛律師といふ台宗の僧後には法然上人の弟子となつて、専修念仏の行者となり、八十歳にして寂す、其時池水より青蓮華生ずとなり。安徳帝の御衣の幢は当寺の什宝なり。〔御母建礼門院御飾をおろさせ給ふ時、御戒師には長楽寺の印誓上人なり、御布施として先帝の御直衣を給ふ〕

円山安養寺

円山安養寺は長楽寺の北にあり、是も山門の別院にして、伝教大師の開基なり。本尊の阿弥陀如来は安阿弥の作、建久年中に慈鎮和尚すみ給ふ、其後時宗と改め、国阿上人住職せり。こゝに盲人源照といふ者、琵琶の妙曲を奏せしかば、天聴に達し、後小松院の恩寵を蒙り紫衣を賜ふ、是盲人紫衣の始といふ。源照はじめより当山に祈誓し、世に名誉あらん事をねがふ、然ふして願望成就せしかば当寺の本堂を建立す。吉水の井は鎮守辨財天の傍にあり。〔慈鎮和尚此地に住給ひしゆゑに吉水和尚といふ〕青蓮院宮御代々の法親王潅頂の時、この水を閼伽とし、夜深更に例式の列を糺し来臨し給ひ、御手づから汲せらるゝといふ。当山坊中の書院は昇らずして高楼に至り、清奇典麗いはん方なし。庭中には石を畳んで飛泉を催し、池を鑿ては舟をうかべ、緑樹芳草四季に花絶ず、蹴鞠の履の音涼しく、中にも多蔵庵(眼阿弥)の庭は相阿弥の作なり、多福庵(也阿弥)の書院の画は雪渓の筆なりとぞ。凡洛陽遊筵の地多かめれど此地に勝るゝはなし。

華頂山大谷寺知恩教院

華頂山大谷寺知恩教院は浄土宗の総本寺にして、鎮西流義なり。元祖円光大師いし宗風開発の霊地にして、吉水の禅房とは是なり。初めは東の山腹今の勢至堂の地にして。大師入寂し給ふとぞ。〔古は叡嶽の別院南禅院にして、慈慧大師草創の地なり。夫より星霜かさなりて山門十二代の座主青蓮院慈鎮和尚、法然上人の弘法を随信し給ひ、此地を寄附し給ふ。昔は今の円山と封境一面にして吉水といふ〕満誉和尚の代に至つて台命を蒙り、険岨を穿て平坦とし、今の如く伽藍御建営あり。〔洛東第一の大廈なり〕山門に掲る華頂山の額は霊元法皇の宸筆なり。本堂大谷寺の額は後奈良院の宸筆とぞ。須弥の壇上には円光大師の像を安置す、西の間には翠簾を巻上げて、壇上に神牌を崇奉る。大師の廟塔は東の山上にあり。勢至堂に掲る知恩教院の額は後柏原院の宸筆なり。本尊勢至菩薩は安阿弥の作なり。〔満誉上人化人より授与し給ふ尊像なり〕紫雲水は勢至堂の傍にあり、大師入寂の時聖衆来迎し、紫雲水面に顕れ異香水気に遺れりといふ、一心院は其南にありて、本尊阿弥陀仏は安阿弥の作なり。抑元祖大師の伝記を鑑に、美作国の久米南条稲岡の産なり。父は久米押領漆時国、母は秦氏なり、子なき事を歎て夫婦諸ともに仏神を祈り、秦氏夢に剃刀を飲と覚て則姙身となり、長承二年四月七日午刻男子を誕。此時紫雲空にたなびき白幡二流降くだりて、館の西なる椋の木に止り、鈴鈬四方にひゞき、紋彩日にかゞやき、七夜を経て天に登る、是より此樹を誕生椋と号、後に仏閣を建て誕生寺と号して今にあり。赤子の字を勢至と号け、竹馬に鞭を打の齢より叡智にして、やゝもすれば西の壁に向ふの癖あり、九歳にして同国の菩提寺の室に入て学問す、院主勧学といふ人倩小児の量を勘ふるに、是只人にあらず、徒に辺鄙の塵にまじへん事ををしみて、比叡山西塔の北谷持宝坊源光がもとに登す。勧学が書翰に曰、進上大聖文珠一体とあり、時は久安三年二月十三日、入洛して勧学が書を持宝坊にいたす、源光これを披見して文珠の像を尋るに、小児のみ上洛せるよし使者申ければ、はやく児の聡明なる事を智せり。則十五日に登山し、源光試にまづ四教義を授るに、籤をさして不審をなす、疑ふ所みな天台の要論なり。不思議の事に思ひければ、我浅才にしていかでか此人を弟子とせんやと、同年四月八日に児を相具して、功徳院の阿闍梨皇円がもとに入室せしむ。皇円其ちのすぐれたるを聞て驚て曰、去る夜の夢に満月室に入ると覚しが、さては此人に逢ふべき前兆なりとぞ悦喜しける。同年十一月美髪を剃、戒檀院にして大乗戒をうけたり。斯て恵解天然にして、四教五時の廃立かゞみをかけ、一心三観の妙理玉をみがく、所立の義師の教にこえたり。阿闍梨感じて曰、学道をつとめ大業をとげ、天台の棟梁となるべしと、よりくすゝめけれ共、是も又名利の学業なりとて、忽師席を辞して、久安六年九月十二日十八歳にして西塔黒谷の慈眼房叡空のもとに行て、我幼稚より隠遁の志願ふかきよし演ければ、少年にして出離の心をおこす事是法然道理の聖なりと感じて、法然房となし、実名を源光の源と叡空の空を摘んで源空と号たり。黒谷に蟄居をなし、出要を求るの心切なれば、何れの道よりか生死を離るべきと、一切経を披見せる事五遍なり。されば諸の経論についてつらく思惟せるに、かれもかたくこれも高し、遂に恵心の往生要集并ふ善導和尚の釈義を以て指南とせり。かの釈には乱相の凡夫、称名の行によりて順次に浄土に生るべき旨を判ぜり。蔵経披見の度に是を窺る事三遍なり。遂に其釈義に、一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念々不捨者是名正定之業順彼仏願故、此文に至りて末世の凡夫弥陀の名号を念ぜば、彼仏の願に乗じて慥に浄土往生を得ることはりに伏し、承安五年の春四十三歳にして余行を捨、専修念仏に帰入せり。されば法然上人の宗風日本に弘まりしかば、山門の悪徒これを破せんとし、或は大原はらにして問答ありしかども、皆念仏の理に伏せり。建久二年の春は、後鳥羽院の逆鱗によつて四国に左遷せられしかども、承元元年十二月に勅許を蒙り、帰京して東山大谷に閑棲し給ふ、是当山の地なり。遂に建暦二年正月廿五日午の刻、法寿八十歳にて遷化し給ふ。是より毎歳正月十九日より一ケ七日の間大法会あり、勅命に依て御忌と称し、音楽の妙なる声は聖衆来迎の思をなし、蘭麝のかほりは布金に満り、法筵の中日には知恩院宮法親王御焼香あり、寺務の大僧正を初末派の衆僧大会の坐列を正し、敬礼渇仰の分野去此不遠の極楽浄土、是皆大師の厚徳顕然たりし謂なりけり。〔洛陽の貴賎袖をつらねて雲の如く群集するを、俗に御忌の衣裳くらべと名づくるなり〕瓜生石は黒門の前にあり。〔むかし此石のもとより胡瓜の蔓生じて瓜を結ぶ、其瓜に牛頭天王の文字あり、是に依て粟田皇の社内に納む〕塔中崇泰院には親鸞聖人廟塔の遺跡あり。〔大谷本願寺と号して、第八代蓮如上人の代、文明年中まで此地にあり、山門の悪徒宗義の繁栄をねたんで不意に押寄て破却す〕小鍛冶が井は山門の傍にあり。〔三条宗近名剣を打し時こゝに来て此水を用ひしとなり〕当山には桜数珠あり。〔糸桜、浅黄桜、世に名高し〕

白川の水上

白川の水上は志賀の山越より流れて、東三条にては白川橋の名あり、知恩院の門前を西に流れて、大和大路より鴨川に落るなり。

新千載
白川の絶ぬ流を尋きて
万代ちぎる友ちどりかな
法親王覚助
東三条金蔵寺御猿堂

東三条金蔵寺御猿堂は青蓮院御門跡の院内なり、三猿の像は伝教大師の作。当寺の本尊は米地蔵と号す、伝教大師唐土より将来し給ふとなり。〔むかし貧女ありて常に此尊像を崇敬する事年あり、菩薩これを感応し給ひて、粮乏き時は米袋を持来つて夢中にあたへ給へり、故に永々貧窮をまぬかる、これによつて米地蔵と号するなり〕

尊勝院

尊勝院は南の丘にあり、本尊は元三大師の坐像にして自作なり。

粟田天王社

粟田天王社は御猿堂の東にあり、本殿は感神院新宮なり、例祭は九月十五日にして、神輿一基鉾十五本あり。〔白川の細き橋をわたる、曲持して見物の興を催すを祭礼の例式とするなり〕

仏光寺廟所

仏光寺廟所は天王社の東に隣る、阿弥陀堂は明和年中の再建にして美麗なり、廟堂には開山親鸞聖人の画像を安置す。

華頂山親鸞聖人植髪の尊像

華頂山親鸞聖人植髪の尊像は、仏光寺の廟所の東に隣る、旧青蓮院御門跡の院内に在せしを、近年此地をひらき給ひ、堂舎を遷し、華頂山御堂と称す。宗旨は天台にして、親鸞宗義を接て正信偈文念仏和讃御文章等の勤行あり。本尊は阿弥陀仏の坐像を安置し、右の壇上の厨子に此尊影を安ず、長三尺にして立像なり、小葵の直衣に薄紅梅の御衣を召、紫の亀甲形の指貫を着し、雲繝縁の褥に在して、児童の御影なり。抑此尊像は、人皇八十代高倉院御宇承安三年に聖人誕生し給ひ、御父は大織冠鎌子大臣の苗孫有範卿と申、御母は八幡太郎義家の嫡子対馬守義親の息女なり。聖人幼年より出離遁世の志願ましくければ、九歳の春青蓮院慈鎮和尚の許にて、翠の髪を薙給ひ御弟子となり、範宴少納言卿と申ける。夫より叡嶽無動寺に登り、天台止観を明め、遂に難行を捨て易行に趣き、本願念仏の一流を弘通し給ふ。慈鎮和尚聖人の剃髪し給ふ御貌をうつしおかれ、かの翠の髪を御頭に植置せらる、是を植髪の尊影と号し、一宗の門俗渇仰日にまして繁昌の霊地とぞなりにける。

粟田神明宮

粟田神明宮は清和天皇御宇貞観年中に勧請し給ふなり。〔朝日の瀧は坂路の右にあり、当山に桜紅葉多し〕

東岩蔵真性院

東岩蔵真性院は神明宮左の山上にあり、本尊は十一面観音を安置す。むかし王城の四方に経王を蔵らる、其石蔵の一ツなり。〔初めは伽藍厳重たり、応仁の乱に回禄して今纔に遺りて小堂あり、是より十町許り山中に大日堂不動瀧あり、毎歳六月廿八日千日詣とて群参す。此所は安井御門跡の領にして、当山の土は陶工に可なり、粟田焼清水坂の土器等此地の土を用ふ〕

蹴上の水

蹴上の水は、むかし源牛若丸金売吉次に具せられ陸奥へ趣き給ひし時、平家の侍関原与市といふ者、牛若の美少年に戯れ此水を蹴上げしかば、牛若丸太刀を抜て与市をはじめ郎等を多く伐捨通り給ひしより、名づけ初しなり。

日岡の峠

日岡の峠に至る三町計り西に、四面山にして其中に往還道あり、俗に姥が懐といふ。〔千本松毘沙門堂は街道の北にあり。峠の梅香庵は地蔵尊を安置す、木もく食じき上人住して、坂路を造り牛馬の労を助く、量救水は石刻の亀の口より漲る、炎暑の節旅人の渇を止むといふ、碑の銘接待所にあり〕

御廟野

御廟野は日岡の東をいふ、天智天皇の御廟なり。むかしは野中にありしゆゑ、往来の人馬駕より下り拝をなし通りける。余り里ちかく路の傍なれば恐れ多しとて、上なる山にうつし奉りぬ、世にいふ十陵の第一なり。天智天皇御馬に召れて山科しなの里を狩し給ひ、忽然として登天ありし所なり。御沓の落止る所に陵をぞ建けり、則御沓石とて陵の南にあり。〔天皇の御沓此石のうへに落しとぞ〕

吉祥山安祥寺

吉祥山安祥寺は御廟の東にあり、真言宗にして紀州高野山宝性院の兼帯所なり、俗呼んで高野堂といふ。本尊は十一面観音なり。傍に地蔵堂あり、恵運僧都入唐の時将来し給ふ地蔵尊なり。当寺は染殿皇妃の御願にして貞観元年の建立なり。〔初めの地は如意山壇の谷にあり、慶長年中今の地にうつす、故に如意山に至り当寺の境内なり〕

山科毘沙門堂

山科毘沙門堂は天台宗にして、御寺務は法親王なり。本尊は毘沙門天の立像にして、開基は伝教大師なり。

諸羽明神の社

諸羽明神の社は、天児屋根命、天太玉命の二坐を鎮奉る。〔此社地より東を四宮河原といふ、むかし延喜第四の宮住給ひしゆゑその名あり。又今の小関越より流るゝ小川古は広大にして一面の河原なり、往還の土橋是なり、下流にては櫃川といふ〕

廻地蔵

廻地蔵は諸羽の東にあり、小野篁の作にして七道の辻の其一ツなり。平清盛の命ありて西光法師の建立なり。

追分

追分は京師伏見大津の駅路なり。道分の石に、柳は緑花は紅の文字を刻む。

音羽山

音羽山〔又牛尾山ともいふ〕追分より東南の山なり。音羽の里小山村は道のほとりにありて一流の山川あり、是を音羽川といふ。水上は山科音羽の瀧にして、古より和歌多し、〔むかし延徳の頃、高水寺殿三品花渓といふ官婦の山荘あり、今西本願寺の別荘是なり〕此流れ右に見左に傍ふて、牛尾観音堂に登る道に安履石あり。〔行叡居士の沓此石上にありしといふ〕弘法腰掛石、鮎戻瀧、調子瀧、音羽瀧は路の右にあり、仙人窟、五丈巌は左の岨を登ること三四丁にあり、蛇が淵は険路の左にありて、経石は其右にあり。

新後撰
音羽山花咲ぬらし逢坂の
関のこなたに匂ふ春風
宗尊親王
続後拾
夕ざれば松吹風の音羽川
あたりも涼し山の下かげ
後西園寺入道
拾遺
音羽川雪げの波も岩越て
関のこなたに春はきにけり
定家
続古
時雨のみ音羽の里は近けれど
都の人のことづてもなし
前左大臣
牛尾山法厳寺

牛尾山法厳寺は七曲り上にあり、真言宗にして本尊は十一面観音なり。天智天皇の御作、脇士は不動、毘沙門天、又行叡居士、延鎮法師の像を安置す。天智帝社神明社あり。〔不動の瀧、天狗杉は鐘楼の傍にあり。黒泥巌、金生水は堂前にあり。智証大師此両品を以て紺帋金泥の曼陀羅を書写し給ふとぞ〕当時は、むかし延鎮沙門音羽川の水上を尋て行叡居士の沓を拾ひ、大悲の化現なる事を智せる霊場なり。〔洛陽清水寺の縁起に委し、此沓当寺の什宝なり。古は伽藍厳重にして旧地は山上にあり〕故に清水寺奥の院と称しける。

山科本願寺の旧地

山科本願寺の旧地は花山の巽にあり、第八代蓮如上人文明年中の建立なり。実如証如に三代住職し給ひて、宗風繁茂して堂舎滔々たり。遂に佐々木定頼が為に回禄に及ぶ。〔委は信長記拾遺にあり〕今山科御坊と称して東西本願寺の懸所二ケ寺あり。〔毎年三月廿五日蓮如上人の正忌あり〕蓮如上人の塚は旧地の西にあり、実如上人の塚は東の野の村東二町にあり。

花山

花山は瀋谷峠の東にあり、元慶寺はむかし僧正遍照住給ひて、天台宗なり。本尊は薬師如来、則遍照の作なり。人皇六十五代の帝此寺に入給ひて祝髪し給ふ、これを花山院とぞ申奉る。

     花山にまかりたりけるに、僧正遍照が室の跡の桜のちりけるを見て
続古
あるじなき住家に残る桜花
哀むかしの春や恋しき
津守国基
苦集滅道

苦集滅道といふは今の瀋谷越をいふ。小町寺玉章地蔵尊は、色ごのみのますらを小野小町に心を通はす艶書をあつめ、妄執の恋慕消滅の為に此像を作り、腹内に蔵む。

瑞龍山太平興国南禅禅寺

瑞龍山太平興国南禅禅寺は東三条の北にあり、旧亀山法皇の皇居なりしを、開山大明国師に賜て五山之上の号を蒙る。当山の記に曰、太上皇亀山院弘安年中に此地に離宮をいとなみ給ふ。正応のはじめ宮中にあやしき事おこりて、嬪妃大になやみあへり。陰陽の頭にこれを卜巫しむるに、故最勝光院の僧正道智むかし此地に棲、世に駒の僧正と称す、其霊のこりて当山を秘惜して障碍をなすといへり。故に顕密の諸師咒術巫祝に及ぶまで百計手を拱く、同四年東福の釈普門〔当寺の開山なり、無関和尚といふ、謚大明国師〕勅命を請て、二十の禅侶を率て宮中に安居し、只何となく衲子をとりて坐禅しけるに、物怪跡を匿し上下安寝す、上皇叡感のあまり普門を礼して伽梨鉢多をうけ給ふ、又宮をあらためて寺となし、〔上皇は上の宮に安居し給ひ、下の宮を寺となし給ふ、今の龍淵室是なり。上檀の鳴なる瀧の画は古法眼元信なり、水呑の虎は探幽にして世に名高し〕遂に命あつて仏殿を創建し給ふ。本尊は釈迦仏の坐像、脇士は文珠普賢なり、又金剛力士しの二体を安置す。〔此力士の霊像は回禄のとき飛いでゝ石上にありしとなり〕南の壇上には亀山太上皇の神牌を崇め奉る、傍には達磨百丈臨済像を安置す。〔仏殿に曇華堂といふ竪額あり〕山門は五鳳楼と号して、寛永年中藤堂高虎の再建なり。〔薩摩杉を多く用ひて是を造る〕唐木の白檀二株山門の内にあり。石の大燈籠一基山門の外にあり、高弐丈余、石は白川の産にして希代の大燈籠なり、蓋石の宝形に二ツ引龍の紋あり、又地輪の上に文字あり。〔南禅寺山門石灯籠寛永五年九月十五日佐久間大膳亮平勝之寄進之為現当悉地成満也〕綾戸明神は拳龍池の乾にあり、是当山の鎮守なり。〔むかし行宮の通衢に綾戸小路ぢといふあり、是に住せる帝の牛飼の舎人死して霊あり、土人これを祭て小祠を建る。応永年中に伯英俊和尚大祠を造りて山門の境致となせしとぞ〕南禅院には亀山法皇の宸影を安置す。金地院には御宮ありて白砂に鳳凰竹を植る、楼門左右には随身の像を置、当院の開祖は大業和尚五山僧禄司の号を蒙る。駒が瀧は東の峯独秀峯にあり、大僧正道智常に此瀑布を愛す、滅後に霊をまつりて当寺の護法神とし、社を瀧の側に建てこれを神仙佳境といふ。〔道智は光明峯寺入道摂政道家卿の息なり、三井の長吏禅林寺にして又狛の僧正ともいふ〕蔵春峡壑雷橋といふは瀧の辺にあり、羊角嶺は天授院の東の峰をいふなり。

聖衆来迎山禅林寺永観堂

聖衆来迎山禅林寺永観堂は南禅寺の北に隣てあり、浄土宗にして西山流なり。本堂の阿弥陀如来を顧みかへり本尊と号す、長三尺余の立像なり。当寺は旧清和天皇の勅願所として、真紹僧都の草創なり。又中興の開基永観律師、永保二年二月十五日晨朝、衆僧ともに行堂の念仏声をおしまず、信感つねならずして乾の方にてしばらく躊躇せり。本尊檀よりおり給ひて、永観おそしと顧命し給ふ。律師感涙を流し、是ぞ末世の衆生を摂取引接の証なりとて、自その由縁を記されたり。〔今当寺にあり、律師は花山院の皇子深観僧都の弟子なり、南都東大寺の勧進職に補せられ、四十二歳にして此地に閑居し、ひたぶる浄土を願ひて往生十因等の書を著せり〕祖師堂には善導大師し(自作なり)円光大師西山上人の三影を安置す。〔当山はむかし真言宗なり。池ノ大納言頼盛卿の息静遍此所に住して、源空の滅後撰択集を披閲して、一向専修の義を立、源頼朝卿ふかくこれに帰依し給ひて、武運長久の為に大般若経を転読す、其例今にあり〕経蔵の額法海の二字は黄檗高泉の筆なり。聖衆来迎の松は堂前にあり、ある夜四方に異香薫じ音楽聞えて、菩薩来集の粧ひ、此松の枝にありしとなり。〔山号は此謂によるなり〕中門の左に諸化の学校あり、会下と称す。〔講堂には甘露殿といふ額あり〕

正東山若王子

正東山若王子は永観堂の北に隣る、天台宗にして修験道を兼職し、聖護院に属す。本社の熊野の三所権現宮は後白河法皇の勧請なり、傍に若一王子を鎮座す。観音堂は那智山の本地十一面観世音を安置す、〔洛陽観音巡りの其一なり〕南の山下に瀧あり。〔那智の瀧をうつすとぞ、当山むかしは宮殿壮麗にして殊に桜花の名所なり、応仁の兵火にかゝりてことごとく荒廃に及ぶとなん〕

霊芝山光雲寺

霊芝山光雲寺は若王子の北に隣る、禅宗にして南禅寺天授庵英仲和尚の再興なり。仏殿の本尊は釈迦仏を安置す。此地にある時霊芝生茂りて光雲空に映じけるを、北闕より叡覧ありて霊場なる事を感じ給ひ、東福門院より当寺を御建営ありしとなり。瑪瑙石の手洗鉢は仏殿の後にあり、当寺の奇観なり。

鹿ケ谷

鹿ケ谷は霊鑑寺御殿の前を東に登る、談合谷は其ひがし一町許にあり。むかし俊寛僧都の山荘あり。〔新大納言成親、平判官康頼等此所に会合し、平家を滅す陰謀を企しといふ〕如意が嶽は東の峰にして、楼門瀧は大木の古松四五本の下にあり。〔鹿ケ谷より八町ばかり東なり〕瀧の太サ一丈余にして長サ五丈許なり、雨の後には水増て近きがたし。抑此嶺は叡えい嶽がくの南に隣て、白雲嶺を埋み谷深うして万仭の青巌路を遮れり、華洛に程近といへ共衆山険難にして常に人跡稀なり。

住蓮山安楽寺

住蓮山安楽寺は鹿谷にあり。本尊は阿弥陀仏の坐像にして恵心の作なり、脇士は観音勢至を安置す、共に運慶の作なりとぞ。当寺は法然上人如法念仏を修し給ふ地なり、徒弟住蓮安楽の二僧に附属し給ふ。然るに後鳥羽院の愛妃松虫鈴虫むしの二婦、一向専修の勧に入、忍んで此庵室に来り尼と成、上皇大に逆鱗あつて二人の僧を刑し、法然上人を四国に左遷す。其後年経て念仏弘法の旧跡なれば寺となし、住蓮安楽の二師を開山とす。

善喜山万無寺

善喜山万無寺は同所にあり、本尊は阿弥陀仏の坐像にして恵心の作なり。開基万無心上人、古は法然上人草庵を営専修念仏を修し給ふ旧跡なり。故に法然院とも号す。本堂の前に銅像の地蔵尊を安置す、客殿の庭に霊水あり、銘を善喜水といふ。此地は松風蕭然としてつねに鉦の音たへず、六時礼讃の声は幽谷に谺し、寂寥として峰の月ほがらかなり、廬山の白蓮社ともたとへられて清浄無塵の仏界なり。〔世に六字づめの念仏を鹿ケ谷流といふは、此寺の称名を習るなり〕

紫雲山金戒光明寺黒谷

紫雲山金戒光明寺黒谷は浄土鎮西四ケの一本寺なり、元祖円光大師の旧蹟にして、叡山西塔の黒谷をうつして新黒谷と称す、本尊には元祖大師の像を安置す、脇壇の厨子には親鸞聖人の像あり、共に自作なり。阿弥陀堂の本尊は恵心の作なり。観音堂の本尊は行基の作にして、千手の像を安置す。〔洛陽観音巡りの其一なり〕勢至堂は法然上人の廟塔なり。〔則勢至菩薩の化現なるの謂なり、台座の下に五輪の石塔あり〕熊谷堂には蓮生法師自作の像、太夫敦盛の画像を安置す、三重塔の文珠菩薩は日本三文珠の其一なり。〔丹後切戸と、和州安倍〕脇士は〔維摩居士、優波利尊者、優墳王、善財童子等の四像を安置す、これを世に天照春日八幡住吉の神像なりといふ大に非なり〕紫雲石は塔の北にあり、元祖大師一宗開発の時此石より紫雲たなびき異香薫じけるとなり。〔紫雲山の号は此謂によるなり〕鎧池、鎧掛松は、熊谷次郎直実上人の教に帰入し、着せし鎧を此池水にて洗ひ松に懸置しとなり。〔蓮生法師は承元二年九月十四日往生すべしと諸方へ自身触まはり給ひしかば、結縁の道俗馳集り庵を囲繞し共に高声に念仏となへ、袈裟衣たゞしくかけ西に向ひ其日の未刻にをはりをとげけるとなん〕元祖大師鴨太神宮の神勅によつて浄土安心の要文を書し給ふ、是を一枚起請といふ。〔当山第一の什宝なり、毎歳六月廿五日虫干の日に是を出して詣人に拝せしむ〕

鈴声山真正極楽寺真如堂

鈴声山真正極楽寺真如堂は天台宗にして、開基は戒算上人なり。本尊は阿弥陀仏の立像長三尺三寸、慈覚大師の作なり。抑此尊像は、江州志賀郡苗鹿明神より神木を大師得給ひ、此木夜毎に光明を放、怪みて割見給ふに仏形鮮にあり、故に此尊像を彫刻す。又承和五年に大師入唐ありて、天台五台山にして顕密の奥義を究、引声の弥陀経を伝て、同十四年に帰朝せり。然にかの引声の一句を失念ありければ、西方に向ひ祈誓ありしに、舟の帆に小像の弥陀香煙に立て、成就如是功徳荘厳と唱給ふ。大師感涙を止て袈裟にうつし、帰朝しこれを胎中に籠給ふ。大師在世の間は叡山常行堂に安置し給ふ。其後永観二年の春戒算上人に、急ぎ聚洛に出て一切衆生を利益すべしと霊夢あれば、まづ雲母坂の地蔵堂にうつす。又其夜の告に、神楽岡をかに桧千本生たる所是有縁の地なりと、此霊夢に任せてこれを尋るに、白川女院の離宮なり。又同夜女院にも告ありければ、先宮中へ遷し、正暦三年の秋宣下ありて伽藍を建立し給へり。〔今の元真如堂の地是なり、夫より所々にうつし、元禄五年の冬洛陽京極今出川より此地に遷座ましくけり〕

     応仁の頃田中里の賎女此本尊に日参し、念仏を申さで心経のみ読ける、
ある時礼堂に眠ければ内陣より
時過てえきなき法をすてよかし
五劫思惟はたがためぞとも
真如堂如来
吉田宮斎場所

吉田宮斎場所は神楽岡にあり。〔神代のとき天照太神天の岩戸に入給へば、八百万の神達集りて神楽を奏せし、其所降て山となりしより号るなり〕当社は清和天皇の御宇貞観二年、中納言山蔭卿の勧請、又一説には卜部兼延の造立ともいふ。〔日本記の抄に見えたり〕楼門の額は日本最上両太神宮、中門の額は日本最上神祇斎場とあり、共に清水谷実秋卿の筆なりとぞ。本殿大元宮には日本神祇三千一百三十二座を鎮座し奉る、日本最上日高日宮の額は嵯峨天皇の宸筆なり、大元宮の額は後土御門院の宸筆、日本国中三千余座天神地祇八百万神の額は清水谷実秋卿の筆なり、八神殿の額は後土御門院の宸筆、此社は大内裏の時神祇官にありて八州守護の験神を崇奉らる、内外の太神宮は八神殿の左右にあり、日本国中の神祇は本殿の両脇にならびて、おのおの国名を著し神社の数を記す、春日社は西の麓にあり、是も山蔭卿の勧請なり。〔其外摂社多しといへども委は画図に見えたり。明星水はむかし此所星落けるとなり、龍沢は春日社の傍にあり、日降坂は龍沢より本殿に登るの道なり、新長谷寺の観音は洛陽三十三所廻りの其一なり、傍に霊符神います、智福院には虚空蔵菩薩を安置す。当所は一面の岡山にして嶮からず、弥生の頃は山躑躅咲乱れて、都の貴賎童など引具しわりごさゝえをひらき、遅日を倦ずして興に乗ず。又長月のすゑ木の葉の錦する折からも、此地に来つて秋の日の短を惜む輩おほかめり〕

長徳山知恩寺百万遍

長徳山知恩寺百万遍は浄土鎮西四ケの一本寺なり、古は加茂の神宮寺にして、慈覚大師の草創なり。法然上人鴨下上を尊信ありて感応を得給ひ、一宗を弘通し給へり。又ある時鴨皇太神宮懇望ありて、末世衆生のため一枚起請を書しめ給ふ、是より当寺を改て念仏の道場とし、徒弟勢観房源智上人に附属し給ふ。〔源智上人は当寺の二世にして、備中守師盛の男なり、無双の智者といひ伝ふ〕後醍醐天皇の御宇に、日本大に疫癘流行て死するもの数しらず、帝これを憐給ひて諸の祈祷ありといへども更に験なし。時に当寺の八世善阿上人に勅命ありて是を祈らせ給ふ、善阿参内して更に余行なく、一七日の間念仏すること一百万遍なり、疫病忽に退て天下安堵す、〔此時修する所の大珠数今にあり〕帝大に叡感ありて号を百万遍と賜る。〔此時弘法大師の筆跡利剣の大名号を賜ふ、当寺の什宝なり〕本堂には元祖大師の像を安置す、本師堂の釈迦如来は慈覚大師の作なり、鎮守は鴨太神宮なり。〔毎歳葵祭には当寺に於ても法楽の神事を執行あるなり〕堂前の石碑は、建久年中に小松内府重盛宋朝へ黄金を渡さる、其志に感じて襄陽の龍興寺より石刻の阿弥陀経を賜る、〔今筑前国の善導寺にあり〕其形を模す所なり。〔一心不乱の以下廿一字の増字は此石経を濫觴とす〕

慈照寺

慈照寺は鹿ケ谷の北にあり、一名銀閣寺とも称し、禅宗にして夢窓国師を開祖とす。原此地は足利八代の将軍義政公、文明十二年に政務を譲りて閑居し給ふ別荘なり、故に東山殿と号す。〔延徳十二年正月七日に薨じ給ひて、慈照院殿喜山公と法名し、遺命によつて此所を寺とし給ふ〕東求堂は義政公の持仏堂にして、観世音を本尊とす。又慈照院の像を安置し。西のかた上壇にかくる水引は濃紫の印金なり、古渡にして世に稀なる奇物とす。若松の画は相阿弥の筆、■々鳥は永納の画なり、茶湯の間は四畳半にして、東山殿の物数寄なり、茶亭四畳半の濫觴とぞ。高貴の賓客常に集会ありて、茶の道を楽み和漢の奇物を翫給ふ、これを後世に伝りて時代物といふ。二重の高閣あり。〔北山鹿苑寺の金閣に准じてこれを銀閣と号す〕上を心空殿、下を潮音閣といふ。鎮守八幡宮は護国廟となづく。閣のまへに橋ありて分界橋、迎仙橋、濯錦橋、臥雲橋といふ。巽のかたに飛泉あり、洗月泉と号。流下の橋を龍背橋といふ。仙袖橋、仙桂橋は東求堂のまへにあり。落照岡には躑躅を植られて、夕陽を止む。向月台、銀沙灘には白沙を敷て落月を惜む。細川石、畠山石、山名石は管領職の献にして、其英名は後世に朽ず。浮石、坐禅石は池中にありて淡路島山の俤あり。龍蟠石、蹲虎石、臥牛石、伏虎石、点頭石、布袋石、天柱峯、回雁峯、香炉峯は其石の形によりて号るなり。北斗石、落星石、寿星石、濯纓石、謝公塢は故事を以て名とす。其外大内石、爛柯石、釣月台、仙人洲、白鶴島、臨湖台、仙草壇あり。ひがしの山を月まつやまといふ。抑此庭は東山殿の好にして、茶道相阿弥台命を蒙りて造しなり、庭中の風光真妙にして山水の法式をもれず、四時の壮観足らずといふ事なし、末代庭造の軌範とするなり。洞庭西湖も掌に握り、松島象潟も目前にたくみて、壷中に山川を縮め、一粒の粟中に日月を蔵したる、神仙の術ありとぞ見えにける。

北白川

北白川は銀閣寺の北なり、里の名にして、川は民家の中を西へ流る、是なん名所三白川の其一なり。

後拾
東路の人にとはゞやしら川の
関にもかくや花は匂ふと
民部卿長家
詞花
白川の春の梢を見渡せば
松こそ花の絶間なりけれ
俊頼
新後撰
秋の夜の月も猶こそ澄まされ
世々にかはらぬ白川の水
為教


此里は都より近江の志賀坂本への往還なり、志賀の山越といふ。素性法師が君が代までの名こそありけりとつらねし、白川の瀧は道の傍にありて日陰を晒し、川の半に橋ありてはじめは右手に見し流もいつとなく弓手になりて、谷の水音浙瀝として深山がくれの花を見、岩はしる流清くすみて皎潔たる月の影閙しく、橋のほとりに牛石といふあり、形は牛の臥たるに似たり。是よりひがしの山中の里あり。比叡の無動寺へは此村はづれの細道より北に入る、右のかたの一家には川水を筧にとりて水車めぐる。

     志賀の山越にて、石井のもとにて物いひける人の別けるをり
によめる
古今
むすぶての雫ににごる山の井の
あかでも人に別ぬるかな      
貫之
志賀の山越にて

山河に風のかけたるしがらみは
流もあへぬ紅葉なりけり
春道列樹
山中峠

山中峠は白川の里より一里半東にして、山城近江の堺なり。むかし長良の山桜と詠しは此峰つゞきなり。三井寺の入相の鐘は志がのうら風に誘れ、琵琶湖この風景一眼の中に尽て、地勢穆々として心を奪はるゝに似たり。

干菜山光福寺

干菜山光福寺は百万遍の北にあり、豊臣秀吉公に干菜を多く献しより此号を賜る。〔俗に干菜寺といふなり。又六斎念仏の本寺たるの旨免許あり、例年六月廿五日近郷より集りて六斎念仏を執行しけるなり〕

瓜生山将軍地蔵

瓜生山将軍地蔵は白川の北にあり、原はひがしの巓にあり、宝暦十二年此地に遷す。本尊は石仏の地蔵尊、長二尺の像なり。〔此地は永禄年中城郭にして、足利将軍義輝公、細川晴元将軍山に籠城のよし、長亭記に見えたり。其頃は此尊像も城中に安置せしなり〕

北山御坊親鸞聖人の旧蹟

北山御坊親鸞聖人の旧蹟は、一乗寺の郷中舞楽寺村にあり、西本願寺の懸所なり。むかしは山門の末院にして諸堂厳重たり、境地に霊水あり、故に聖水山舞楽寺と号す。聖人叡嶽にありし時、一宗開発の志願頻にして、此所に来り百日別行し、霊水にて垢離し給ひ、洛陽六角堂救世観音にあゆみを運び給ふ。又ある夜夢中に、聖徳太子此地に影向ありて、生極楽の要文を授給ふ、是より他力本願の一流を弘め、末世の衆生を化益ましましけり。霊水影向石ともに御堂の東にあり。永正年中まで堂舎厳然たりしが、其後荒廃に及ぶ。本願寺九代実如上人御堂草創ありしを、寂如上人の代に堂舎を山科へうつさる。〔聖水山の額今山科にあり〕近年法如上人〔当御門主なり〕門徒に命ぜられ、再御堂を建立し給ふなり。

詩仙堂

詩仙堂は一乗寺村天王に至る南方にして、石川丈山の山荘なり。表に小有洞の額あり、中門の額は梅関、路次の額は凹凸くわ、詩仙堂の額、上は嘯月楼下は蜂要、四壁には漢晋唐宋の詩人三十六輩の像を画、則其人の詩を丈山みんから書して、画は狩野尚信のぶとぞ、故に詩仙堂といふ。
左一蘇武、謝霊運、杜審言、李白、王維、高適、儲光羲、韋応物、韓愈、劉禹錫、李賀、杜牧、寒山、林逋、梅尭臣、欧陽修、黄庭堅、陳与義、左十八右一陶潜、鮑昭、陳子昂、杜甫、孟浩然、岑参、王昌齢、劉長卿、柳宗元、白居易、廬同、李商隠、霊徹、邵雍、蘇舜欽、蘇軾、陳師道、魯幾、
右十八丈山の墳は詩仙堂の巽の方山上にあり、正保二年舞楽寺村の中山に寿壙を築て頑仙祠と号す。〔丈山は无二の隠士にして、此竹林に居し、誓て鴨川を渡らずとなり、寛文十二年五月廿三日卒す、年齢九十歳〕

天王社

天王社は一乗寺山下里松の東にあり、古は舞楽寺のやしろといふ、八大天王を祭る。末社は諏訪八幡宮なり、此地の氏神にして例祭は三月五日なり。

赤山社

赤山社は修学寺村の東山下にあり、慈覚大師唐土より帰朝のとき、明神は白羽の矢負ふて船の上に現じ、天台守護となり給ふ、神託によつて此所に観請しけり。〔転宅の節、当社の神札をうけて家に張れば、鬼門金神の祟なしとぞ〕神前に迦字の梵字を三所にかくる、本地堂は地蔵菩薩にして、慈覚大師の作なり。

玉山稲荷社

玉山稲荷社は高野の村にあり、原内裏にありし祠なり、享保年中此地へ預らるゝ所なり。

御蔭社

御蔭社は叡山の西の麓、高野川の東にあり。下鴨皇太神宮降臨の地なり、故に御生山といふ。例祭は四月中の午の日なり、内裏より恒例の祭式魏々として、氏人は騎馬にて列を正し、神馬には錦蓋をかざし、楯鉾弓等の神具さまざま列り、音楽にて下鴨の神臨幸あるなり。

新勅
かけて祈るそのかみ山の山人と
人もみあれのもろかつらせり
雅経
矢背の里

矢背の里は高野の廿町北にあり。天武帝大友王子と位を諍ひて山城の北へ馳給ひし時、王子の軍兵追かけ奉りて射かけゝれば、御背に矢中けり、此ゆゑに名とす。〔又八瀬とも書〕当所に竃風呂あり、天武帝の矢の跡平癒のためしつらひしを始とせり。〔今も竃風呂七八軒ありて、何れも国名を名乗る、竃風呂には青松葉を焼、功能勝るゝとなり〕

惟喬親王の遺跡

惟喬親王の遺跡は上野の村にあり。〔是御墓にして五輪石塔あり、閑居の地は御所田といふ、今田の字となれり〕

西方院

西方院〔上野の村にあり、開基は寂忍法師〕摂取院〔大長瀬村にあり、本尊は阿弥陀仏、聖徳太子の作なり、開基は浄住法師〕

融通寺

融通寺は来迎院村のひがしにあり、本尊は阿弥陀仏の坐像にして湛慶の作なり、開基良忍上人の像あり。〔当寺は融通念仏の開祖なり、天治二年の頃洛陽に出て是を弘め給へり。融通といふは自称の念仏他の功徳と成り、他は随喜して是を修するに其功徳又自に帰す、是自他不二平等融通す、不可思議広大の善功なりとぞ〕

魚山来迎院

魚山来迎院は融通寺の東に隣る、本尊は三尊にして中央は薬師仏〔左釈迦、右阿弥陀〕開基は良忍上人なり。此地は叡嶺西塔の北谷にして、昔は坊舎一百余宇ありしなり。魚山と号するは、漢土の天台山の西に大原魚山といふ、此所も天台山の支山なれば此例によつてなづくるとかや。音無瀧は来迎院の東四町にあり、飛泉二丈余にして翠岩に添ふて南へ落る、蒼樹蓊欝として陰涼こゝろに徹し、毛骨悚然として近きがたし。

夫木
小野の川のうへより落る瀧の名の
音なしにのみぬるゝ袖かな
西行
小野山

小野山は音なしの瀧の山をいふ、むかしは此所にて炭を焼しなり、和歌に詠ず。

拾遣
深山木を朝な夕なにこりつめて
寒さをこふるをのゝ炭焼
好忠
続拾
夕ざれば霧立空に雁鳴て
秋風寒し小野の篠原
藻壁門院
梶井宮円融院梨本房

梶井宮円融院梨本房は、呂の川の北にあり、天台の座主にして諸門を推てこれを祖とす。〔当院むかしは東坂本にあり、梶井の芝とて今に旧跡のこる。夫より舟岡山の麓にうつし、近代此地へうつすとなり〕極楽院〔当院にあり、恵心僧都の妹安養尼の庵室の旧跡なり〕売炭翁の墓〔うしろの山にあり、古此所にて炭を焼初し翁の墳なりとぞ〕

      極楽院に陵阿上人うゑ置たる桜を見て
草庵
見るたびに袖こそぬるれ桜花
涙のたねを植や置けん

頓阿護法石〔当院の門前垣の傍にあり、むかし皇慶阿闍梨といふ智徳の僧ありて、常に天童来りて随従す、これを護法童子といふ。皇慶の滅後に化して石となりしといひ伝ふ〕

魚山勝林寺

魚山勝林寺は梶井御殿の北にあり、本尊を証拠阿弥陀と号す、坐像にして長七尺、仏工の祖康成の作なり。当院は一条左大臣雅信公の息少将入道寂源法師の草創なり。むかし叡山の僧都卒覚超、同静慮院偏救とて、いみじき智者のおはしき、此如来の前に於て仏果の空不空の議論ありけり。覚超は不空との給ひしに、如来相好を隠し、偏救は空の義を立て給ふにかへつて相好をあらはし給へり。然れば中道実相こそ如来の本意なれといふこと、こゝに於て顕れぬ。夫より世の人証拠弥陀と称しける。又文治二年の秋、法然上人と山門座主顕真法印を始め、諸宗の学徒と一向専修の問答侍りしに、法然上人の談論あるときは、本尊光明を放給ふ、これを大原問答といふ。諸宗の知識みな上人の弘法に伏し、顕真もたちまち専修の行者となり、則法泉坊に住給ひ、称名念仏絶えずとなん。

実光坊

実光坊〔勝林院の前にあり、後鳥羽の院の御塔は坊中にあり〕

法華常行堂〔実光坊の北にあり。本尊には聖観音を安置す、恵心の作なり〕

袈裟かけ石〔勝林院村の西にあり。皇慶法師大原に住給ひしとき、天童降りて袈裟の穢しを、天竺の無熱池に飛行て濯かへり、此石にかけしとなり〕

古知谷光明山阿弥陀寺

古知谷光明山阿弥陀寺は勝林院より十八丁北なり、〔むかしは鴛谷といひしとなり〕浄土宗にして、本僧阿弥陀仏は恵心僧都の作なり。当寺の開基弾誓上人は尾張国あまべの里に出生し、幼名を弥釈丸と号す、九歳の時出家し、美濃国塚尾観音に百日参籠し、念仏諸行に勝るゝ霊文をさづかり、夫より自行のために山居し、あるひは国々を経廻して花洛に至り、五条の橋を通り給ふとき、洛北のかたに紫雲空に靉靆、光明赫々としたる所あり、これを慕ふて遂に此所に至り、是ぞ有縁の霊地となりとて、則一宇の堂舎を建立しけり。其時頭に雪をいたゞきたる老翁、阿弥陀仏一体を持来り、本尊にし給へと上人にあたへ、忽然として行方なし、当寺の本尊これなり。開山堂には弾誓上人自作の像を安置す。〔開山上人の存生は有髪の道心者なり、滅後此像に髪を植る、世に植髪の木像とも云〕

芹生の里

芹生の里大原郷にあり、むかしより和歌に多く詠ず。

夫木
大原や芹生の里の月はみつ
いつか我身もすむべかるらん
実家
寂光院

寂光院は草生村にあり。原弘法大師の開基にして、文治の頃建礼門院閑居し給ひしより、今に至り尼寺となる。本尊地蔵菩薩は聖徳太子の御作なり、則門院の御影、阿波内侍の像あり、庭にはみぎはの池、みぎはの桜あり。

     後白河法皇大原御幸の時
平家物語
池水にみぎはの桜ちりしきて
浪の花こそさかり成けれ

後白河院此辺の垣を緑蘿の垣といふ。門院の御墳は後ろ山にあり、これを翠黛山といふ。不動干まん石、石剣〔ともに弘法の作なり〕鎮守神明宮〔うしろの山にあり、天の岩戸といふ岩窟あり。落合の瀧は寂光院の前にあり〕○〔建礼門院と申は、平相国清盛の御女にして、十五歳にて女御の宣旨を蒙り、十六にて更衣のくらゐにそなはり、廿二の御時皇子御誕生ある、是を安徳天皇と申奉る。平家の一門西海にて入水の時、やうやう源氏の武士にたすけられ、ふたゝび洛へかへり給ひ、初は東山の麓吉田の辺に住せ給ひ、廿九の御時かしらをおろし、さまをかへさせられ、文治元年長月の末に此寂光院へ入らせおはします〕

平家物語
思ひきや深山の奥にすまひして
雲井の月をよそに見んとは

建礼門院此地は常に寂寥として人跡まとをに、洛のつてもすくなく、春は漸軒の梅かほり、庭の若草しげりあひ、青柳の糸風にもつれ、山藤松にかゝりて花橘匂ふ頃は時鳥音信、秋はいとゞ物淋しく、心のまゝにあれたる籬は、野辺より露しげく、虫の音鳴つれる折、

     かしかまし大原の野の轡虫
手綱ひかへて法の声きけ
建礼門院
〔此御詠より此草生村には今もくつは虫鳴ずとなん〕
朧の清水

朧の清水は寂光院のほとりにあり。むかしより名高きしみづにして、和歌に詠ずる事数多し。つねに湛々として、月の影は清水にやどりて澄、しみづは又月の皎なるをうつして清く。良暹法師も此地に幽棲して月も浮まん大原やと吟じ、寂然法師は月をぞやどす大原の里とながめし。むかしも今さらに水の面にうかみ出るやうになん侍りける。

後拾
水草ゐし朧の清水底澄て
こゝろに月の影はうかぶや
素意法師
後鳥羽院かくれ給ひて大原におさめ奉るよしきこえければ
続古
入る月の朧の清水いかにして
遂に澄べき影をとむらん
順徳院
続後拾
八重葎しげれる下にむすぶてふ
朧の清水夏もしられず
匡房
新千載
わが恋は朧の清水岩越て
せきやるかたもなきこゝろ哉
俊頼
夫木
まれにこし朧の里に住なれて
老は清水ぞあるじなりけり
丹後
比叡山延暦寺一乗止観院

比叡山延暦寺一乗止観院は、本朝五岳の其一つにして、王城鬼門に当れば艮峯とも号す。はじめは日枝の山と書しを、桓武天皇の御宇延暦年中に、伝教大師と叡慮を等し、帝都鎮護として根本中堂を建営し給ふより、比叡山と改らる。〔又別名ありて、天台山、我が立つ杣、艮岳、鷲峯、台嶺、叡嶽、大日枝、小日枝等の号あり〕

    比叡山中堂建立のとき
新古
阿耨多羅三藐三菩提の仏達
我立杣に冥加あらせたまへ
伝教大師

愛宕山の一の鳥居より日枝の山を見れば、駿河の富士を見るにひとしとて、都のふじといふ。

拾遺
我恋のあらはにみゆる物ならば
都のふじといはれなましを
読人しらず

東塔〔止観院と号す、西塔、横川を合せて三塔といふ。東塔の東谷に十一坊、西谷に十一坊、南谷に十二坊、北谷に十二坊あり〕 根本中堂〔本尊は薬師仏、開基伝教大師の作なり〕 一乗戒壇堂〔釈迦文珠弥勒を安置す、嵯峨天皇弘仁十四年の造立にして、慈覚大師入唐のとき、漢土の五台山の土を荷担してかへり、戒壇の下に埋給ふ〕 文珠楼〔五台山をうつして、本尊には文珠菩薩を安置す〕 大講堂〔本尊は大日如来、梵天帝釈文珠を安置す、深草天皇の御願なり。大会執行のとき勅使参向の堂なり〕 前唐院〔慈覚大師の廟堂なり〕 千手堂〔千手観音を安置す〕 山王院〔智証大師の本房にして、山王神常に影向の地なり〕 千手井〔又辨慶水ともいふ、西塔武蔵坊千手堂に千日参籠す、此水を毎日閼伽とせしより此名あり。平相国清盛熱病の時此水を石船に湛て沐すといへり〕 浄土院〔伝教大師の廟堂なり。最澄と号す、俗姓は三津氏、江州志賀郡の人なり〕 西塔〔宝幢院と号す、西塔の東谷に九坊、南谷に十坊、北谷に十二坊あり、浄土院を下りて谷川を堺とす〕 法華堂〔本尊は普賢菩薩なり〕 転法輪堂〔本尊は釈迦、文珠四天王、承和元年勅によつて延秀円澄造立す〕 常行堂〔阿弥陀仏を安置す、寛平五年静観僧正建立なり〕 椿堂〔如意輪観音を安置す、山門建立以前、聖徳太子此山に登て勝地を求て此本尊を安置す。又椿の御杖を伽藍の傍に立置れけるが、後に枝葉茂りて大木となる。年経て荒廃に及び今小堂あり〕 宝幢院〔恵亮和尚の廟塔なり〕 相輪たう〔王城の東北にあたる印にして、伝教大師の銘あり、俗に鬼門柱といふ。高さ四丈五尺、九層あり、十一の宝鐸を懸る、弘仁十一年歳次庚子九月十一日とあり〕 青龍寺〔黒谷にあり、本尊文珠、十一面観音浄名居士を安置す、法然上人此所に住す、木像あり、俗に元黒谷といふ〕 横川〔楞厳院と号す、十四坊あり〕 中堂〔本尊聖観音は慈覚大師の作、脇士は毘沙門不動なり〕 慈恵大師廟〔釈良源といふ、永観三年正月三日入寂す、此ゆゑに元三大師といふ、俗姓は木津氏にして江州浅井郡の人なり。大師の影像飯室横川御鬮に就て安置す、都と鄙ひの詣けい人日々に多くありて霊維新なり〕 四季講堂〔五部大乗四季に講讃あり、故に名とす〕 大師堂〔村上天皇の御願にして、慈恵大師の開基なり、弥勒如意輪不動山王を安置す〕 観音堂〔華表岡又不二門といふ、願諸来向者皆不二門の額は慈覚大師の筆なり、首楞厳院に掲る〕 慈忍和尚廟〔横川小聖と号す、九条殿師輔卿の十男なり〕 飯室〔横川の別所なり、宝満寺といふ不動堂あり〕 安楽院〔恵心僧都住給ふ所なり、本尊阿弥陀仏恵心の作、又恵心の像を安置す。院内に菩提樹あり、これは恵心僧都の製作し給ふ往生要集を宋国へ贈られしとき、四明の知礼禅師披見して随喜し、報酬のため此菩提樹一株を渡す、恵心これを植給へば、日々に枝葉繁茂しけり。元亀の兵火に滅しける所、十有九年を経て此樹に忽枝芽出て再生す、山門是より再興に及ぶ、故に後鑑の樹と謂べし。○当院に叡桓僧都のすませ給ひ、法華経一万部精誦ありし時、釈迦普賢の尊像忽然として壇上に顕へ感見すといふ〕 無動寺〔或は無幢寺に作る、此所に坊舎十三坊あり〕 不動堂〔相応和尚の作なり。染殿の皇后に霊鬼の障碍ありし時、相応和尚此不動尊に祈り給ふ、日を経ずして霊鬼退散す、故に染殿后より此所を御建立ありしなり〕 大乗院〔慈鎮和尚住給ひし所なり。此院のうへに墳墓あり。又本願寺の祖親鸞上人もこゝに住給ひ、天台の学問ありしなり。当院は山中第一の絶景なり。山王七社の中客人宮は此谷の守護神なり〕

続後撰
鷲の山有明の月はめぐりきて
我立杣の麓にぞすむ
慈鎮

辨財天〔竹生島より此地に白蛇と化して影向ありしなり。宮のうしろに影向石あり。親鸞聖人弘法の為此宮に祈誓ありしとぞ〕 雲母坂不動堂〔本尊不動明王は伝教大師の作なり、雲母寺の額は石川丈山の筆とぞ〕 南光坊〔戒壇堂の傍にあり。慈眼大師と号す、日光御門主の御本坊なり〕 当山名勝四明が嶽〔叡岳第一の峰なり。雲母坂より登りて右に小径あり、山上に石仏を安置す、是山城近江の堺なり。絶頂より快晴の日は、西海の淡路島四国の海路幽に見ゆるなり〕 満土混論の辻〔大講堂を東へ下りて四辻あり、これをいふ。伝教大師在世の時、大黒天出現の地なり、大黒堂あり。是より南へ行けば、南谷無動寺の通路なり。東へ行ば、東谷より坂さか下もとへ下るなり。宝地坊証真の旧跡花王院あり、北へ行ば根本中堂の参路なり〕 登天石〔東塔の南谷遺教坊の門前にあり。此ほとりに法性坊尊意僧正の旧跡あり。菅神此石を踏で登天したまふといふ〕 常光坊〔此寺の前は絶景にして、中秋の月佳境なり。又此地に楓多くありて紅葉の時も眺望あり〕 三ツ子坂〔戒壇院の後より右へ下るなり〕 青龍石〔西塔千手院の大嶽に大巌あり、龍の口をあきたる形に似たり。此前に至れば人多く死す。千手院の静観僧正此石頭に座して一七日加持し給へば、忽然として黒雲覆ひ山谷震動し、岩石くだけ散しなり。夫より祟なしとぞ。宇治拾遺に見えたり〕 三尊石〔横川に至る道の傍に大岩三ツあり、此所魔境といふ〕 五百羅漢石〔道より西のかた谷の向ふに岩石幾許ならびあり、むかし五百の賢聖習定の所なり〕 阿字休息峰〔路の傍に切石あり、北嶺回峯の行者王城加持修行の所なり〕 釈迦多宝仏〔これ山城近江の境なり。西は八瀬の里へくだる路あり、東は横川へいたる〕 波母山〔又小比叡ともいふ。横川へ行左の方山の半腹に大巌あり、神代に白髭明神釣を垂し所なりとぞ〕 寒嵐嶽〔華表岡より西の高峰をいふなり〕 華表岡〔又不二門といふ、是より横川の分地なり〕 阿弥陀峯〔鳥井の下に立て西を臨ば、二峰あり。昔恵心僧都弥陀来迎を拝せし所なり。又峯越弥陀だともいふなり〕 蟻塚〔路のかたはらに石垣を築小径にあり。相応和尚此道を通りし時、大雨頻に降て前路を崩隔す、時に山蟻数万集りて暫時に路を開て往来をなさしむ、和尚奇異の思ひをなして、此所に其印を築て蟻塚と号す〕 龍池〔又赤池ともいふ。慈覚大師結界して龍神を潜居すといへり、今も雨を乞ふ時はこゝに祈るとぞ〕護法石〔中堂の東の下にあり〕 如法水〔中堂の閼伽井なり〕 独鈷水〔又寂静水ともいふ。慈恵大師鑒開の水、華蔵院のうちにあり〕 衣掛石〔和労堂より八王子にいたる小径にあり〕 五男三女降石〔同所にあり〕 樺生谷〔横川より八王子に至る道にあり〕 戒心谷〔飯室へ下る行路にあり〕 定家卿墓〔横川へ至る道のかたはらにあり、伝に言、定家卿此山に登臨し、つねに閑寂なるを愛し給ふ。石の小塔あり〕

家集
踏だにもえにしなるてふ此山の
土となる身のたのもしき哉
定家

奈良坂〔横川より坂下へ下る道をいふ、春日明神影向の地なり〕 蛇池〔雲母坂を登りて、左の路のかたはらに窪きところあり。今は水涸て池なし〕 水飲〔雲母坂の中途にあり。むかし地蔵堂ありて脱俗院と号す。真如堂の阿弥陀仏山上薬師堂よりはじめて遷仏ありし所なり〕 音羽谷〔雲母寺の南にあり、むかし瀧ありて比叡山音羽の瀧といふ。今は山崩て瀧なし〕

      ひえの山なる音羽の瀧を見てよめる
古今
落たきつ瀧の水上年つもり
老にけらしな黒き筋なし
忠岑
権中納言敦忠が西坂本の山荘の瀧の岩にかきつけらる
拾遺
音羽河せき入ておとす瀧津瀬に
人の心の見えもする哉
伊勢
ひえにのぼりて帰りまふてきて詠る
古今
山高み見つゝ我こし桜花
風はこゝろにまかすべらなり
貫之
玉葉
世を祈るわが立杣の岑晴て
心よりすむ秋の夜の月
前大僧正源恵
ひえの山に二月五番とて花など作る事侍ける、その花づくしせんとて、
人の山によびのぼし侍ければ、むかし此山にて物などならひける事を思
ひ出て
拾遺
いつとなく鷲の高ねに澄月の
光をやどす志がのから崎
法橋性憲
新勅
大嶽の峰吹風に霧晴て
かゞ見の山に月もくもらぬ
慈円
風雅
三の岑二の道をならべ置て
我立杣の名こそ高けれ
慈順
日吉山王社

日吉山王社は比叡山の守護神なり、東坂本にあり。本社七座、摂社十四坐、凡廿一社なり。例祭四月中申日。 大宮 (大己貴命、本地釈迦)、二宮(国常立尊、本地薬師)、聖真子(正哉吾勝尊、本地阿弥陀)、八王子(国狭槌尊、本地千手観音)、客人(伊弉冊尊、本地十一面観音)、十禅師(瓊々杵尊、本地地蔵)、三宮(惶彦尊又豊斟淳尊、本地普賢)、以上七社
下八王子宮(天御中主尊、本地虚空蔵)、王子宮(建御名尊、本地文珠)、早尾(素盞鳴尊、本地不動)、大行事(高皇産霊尊、本地毘沙門)、聖女(下照姫、本地如意輪)、新行事(瀛津姫、本地吉祥天女)、牛尊(八王子の御子、本地大威徳、下に霊石有)、小禅師(彦火火ゝ出見尊、本地弥勒龍樹)、悪王子(深秘、本地愛染)、岩瀧(踏鞴姫命、本地辯財天)、気比(仲哀天皇、本地聖観音)、剣宮(素盞鳴変神、本地不動)、大竃(澳津彦命、本地大日)、竃殿(澳津姫命、本地金剛界大日)、以上十四社
若宮(国常立尊、比叡辻に有)、護国(二条院勅附なり)、女別当社(唐崎の神社、大宮出現の地なり)

      聖真子宮によみて奉りける
続後撰
やはらぐる光はへだてあらじかし
西の雲井の秋の夜の月都
良仙
日吉によみて奉りける歌の中に大宮を
いにしへの鶴の林に散花の
匂ひをよするしがのうら風
後京極摂政
久かたの天津日吉の神まつり
月のかつらも光そへけり
尊円
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