都名所図会 巻之六 後玄武再刻

ホーム

本文

鴨下上皇太神宮

鴨下上皇太神宮の御社は、天武天皇白鳳五年の造営にして、下の社御祖の神は加茂建角命の御娘玉依姫にてまします。ある時瀬見の小河のほとりに遊び給ふに、丹塗の矢ひとつながれ来りしを拾ひ取り、屋のうへにさし置、しばしへて孕身となり、終にをのこゞをまうけ給ふ。一日里人をあつめ宴を催し、杯をかの男子にあたへ、汝が父にさし給へといひ聞せ侍るに、盃を虚空になげうち、神とあらはれ天に昇り給ふ。是なん上の御社別雷太神宮なり。丹塗の矢は火雷命のなり。〔松尾大明神是なり〕葵祭は卯月中の酉日、欽明帝の御宇に始る、大内より御車出て、公卿みなみな騎馬にてあふひかづらをかけ、音楽を奏し、其儀式厳重にして美麗の行粧他にならびなき祭礼なり。〔まつりとばかりいふはあふひ祭のことなり〕

        みあれに参りて社の司おのおのあふひをかけけるによめる
新古今
跡たれし神にあふひのなかりせば
何に頼をかけて過まし
加茂重保

五月五日の競馬は、いにしへ大内裏武徳殿において騎射の事あり、此例によるとかや。朔には足揃あり、神官達黒赤の装束を着し、左右に別れ、勝負の楓とて馬場の左にあり、是より中にて落たると乗おくれたるとを負とす。六月十九日より晦日迄は夏越祓とて、御洗川がはの辺に諸人遊宴するなり。晦日には上鴨の神前において猿楽あり。

新古今
鏡にもかけみたらしの水の面に
うつる許の心とをしれ

此歌は加茂へもうでたる人の夢に見えけるといへり。日蔭山二葉山は、上鴨神殿の東にありて御生山の別名なり。石川、瀬見の小川、鴨の羽川などは、皆みたらし川をなづくるとかや。

続古今
君が代も我世もつきじ石川や
せみの小川の絶じと思へば
鎌倉右大臣
家集
降雪はみたらし川に影見えて
空にぞすめるうと浜の声
定家
続後撰
さかのぼる鴨の羽川のその上を
思へば久し世々のみづがき
前太政大臣


岩本橋本の社は、住吉和歌の二神とも、又業平実方の化現なりとも云伝ふ。吉記にいはく、平安の京は百王不易の都なり。東に巌神あり、西に猛霊をあほぐ、則巌神は鴨太神宮なり、猛霊は松尾の霊社是なり、二神の鎮護によつて、万代平安の福を蒙るも、此御神の威徳なりとぞ。

松崎本涌寺

松崎本涌寺は開基日生上人にして、日蓮宗派なり。天正年中に法華円純の学室となる。妙泉寺は日像上人のひらき給ひし所にして同宗なり。毎歳七月十六日堂のまへにて、此里の老若男女うち交り、題目にふしをつけ声おかしく拍子とり、踊り狂ふなり。是なん松崎の題目をどりとて名に高し。其夜うしろの山において、妙法の二字を焼火に顕し、聖霊会の送火とするなり。

御菩薩池

御菩薩池は幡枝の南にありて、傍に地蔵堂あり。平相国清盛の代よ西光法師となみしとぞ、六地蔵廻りの其一なり。

市原の普陀洛寺

市原の普陀洛寺は、いにしへ清原深養父の幽棲し給ふ所なり。旧地は是より丑寅のかたにて堂の谷といふ。後白川上皇大原の女院を訪給ふとて、此所を通り普陀落寺に御幸の事あり。〔平家物語にのせたり〕

           庭に小野小町四位少将の墓あり、ある人市原野を通りしに、
すゝき一むら生ひたるかげより、
秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
小野とはいはじ薄おひたり
小野小町
北岩蔵大雲寺

北岩蔵大雲寺は天台宗にして、本尊は聖観世音の立像なり、行基の作とぞ。抑此寺のはじめは、王城の北の空に紫雲のたなびく所あり、衆人是をあやしむ。去によつて勅使として右近衛中将何某をつかはし見せしめ給ふに、此山の巓なり。勅使不思議に思ひ給ふうち、忽然としてかしらに雪をいたゞきたる老尼現れ、曰、此地はこれ観世音降臨の霊地なり。又高峰にいたるに異香四方に薫じたる霊嶽あり、是を窺見れば音楽を奏して、其中より観世音の光明赫々たる尊体を拝して、此地に伽藍をたて給ひて、行基の作り給ひし尊像を本尊となす。大雲寺の額は詔によつて佐理卿筆を染たまひしなり。〔今本堂にかくる是なり〕開基は智辨僧正なり。〔伝釈書に出る〕又此所を岩蔵となづくる事は詔あつて王城の四方に石蔵をいとなみ経王を納めらる、其辺りに石座明神まします、是れ石蔵のゆゑんなり。

八塩の岡

八塩の岡はむかしおほくの楓茂りて、秋のすゑ紅葉する事蜀錦を翻すにことならず、今は北の尾崎に少し残る。

長谷八幡宮

長谷八幡宮は惟仁親王の勧請し給ふ所なり。長谷花園中村三郷の氏神にして、祭は八月十五日、神輿一基あり。

朗詠谷

朗詠谷は大納言公任卿の幽居し給ふ旧跡なり。此所は長谷川を傍て、北のかたなる山中に入ること五六町ばかり。これを過て解脱寺といふ旧地あり、今に礎石のこる。こゝにおいて公任卿出家し給ふとぞ。是より一町ばかり北に至れば平地あり、彼卿此所に住給ひ、和漢朗詠集を撰し給ひしとなり。又御所谷ともいふ。

        世をそむきて長谷に侍ける頃、入道中将のもとより
また住馴しかしなど申たりければ
後拾遺
谷風になれずといかゞ思ふらん
心ははやくすみにしものを
公任

長谷川は八塩の岡の北なる谷より流れ出て、長谷村の中を西へながれ、岩倉大雲寺の前より南に落ちて、幡枝にながるゝなり。花園は長谷の南にあり。

松尾山鞍馬寺

松尾山鞍馬寺と号するは、白鳳十一年天武帝大友王子に襲れ、此所まで逃給ひて、鞍おける馬をつなぎしより鞍馬と名づけ初しなり。抑此寺は、延暦十六年に大中太夫藤伊勢人草創なり。此人仏に帰する事篤、たゞ勝地を求めて精舎をいとなみ、観世音の像を安置せんと常に願り。ある夜の夢に、洛北の山嶺に至る、忽然として白髪の老翁顕れ語て曰、此山は天下にすぐれ、形は三鈷に似てつねに彩雲たなびく、汝此所に精舎を建立せば利益無量ならんとぞ。太夫翁の名を問しに、王城の鎮護貴船神なり。夢覚て何れの所ともしらでありければ、久しく飼る白馬に鞍を粧ひ、むかし摩騰法蘭は舎利像経を白馬に乗せ震旦に来れり、されば白馬は霊畜なり、汝定て夢の地をしるらんとて、童子をつけて馬を放しに、其馬都の北なる山に駆り、茅の中にぞ止りぬ。童帰りて此よしを告る。太夫往て其山を見るに、夢にたがはず、しかも叢林に毘沙門天の像を得たり。則一宇をいとなみて此像を安置せり。されども観音の像を置ずして願ひいまだとげざるよと思へる、又其夜の夢に天童来りて曰、汝多門天の像を得て観世音を願ふ、応知観音と多門天の名は異なれども同一体なり。覚て後願ひ今は充りと歓喜せり。又一宇をいとなみて千手観音を安置す、今の西の観音院これなり。正月初の寅の日諸人群参する事は、毘沙門天十種の福をあたへ給ふ誓願ありて、賈人うりかふ物の利潤に虎の千里を趨る勢を縁にとりて此日参るなり。六月廿日の竹伐といふは、当所の俗人、本堂と西の観音堂に集りて、一丈ばかりなる青竹を双方に立おき、本堂は近江方、観音堂は丹波方となづけ、一山の院衆法筵を催し、互に相図の声を合せ、かの竹を三段にきりて堂を下り、一の曲切石のもとへ足に任せて走りゆく、早を勝とするなり。此来由は往その昔南都と招提寺の鑑真僧正、此山に分入れしに、雌雄の大蛇あつてちまたに蟠る、僧正しばらく持念ありければ、一ツの蛇忽に滅けり。今一ツに向ひてけふよりして人を悩す事なく、又当山の用水ながく絶す事なかれとて放やられけり。それより本堂の北にある閼伽の水滔々として涌出、今にたゆる事なし。しかれば竹をかの蛇になぞらへ、是をきりて魔を払ふなり。扨又夜に入て里の俗を壹人本堂の中に座せしめ、院衆法力を以て祈殺し、又祈活す事あり。かの俗人にはかねて毘沙門天此事を告給へり、役を止べき時にも告給ふ。奇妙不思議の事ども多かりき、秘してかたらず。靭明神はくらまの氏神にして、大門のうちにあり。祭れるところ大己貴命一座なり。朱雀院の御時天慶年中に勧請ある、由木と号する事、天子の御悩あるひは世のさわがしきとき、靭を此社にかけらるゝなり。〔例祭九月九日〕庭石、焼炭、木芽漬は此所の名産なり。ふごおろし、うず桜世に名高し。

歌林
霞たつくらまの山のうず桜
手折枝折に折ぞわづらふ
顕季
夫木
是やこの音にきゝつゝうず桜
くらまの山にさけるなるべし
定頼

袖中抄曰 雲珠桜は唐鞍の雲珠に似たれば、鞍馬の縁にいふなりとぞ。

僧正谷

僧正谷は源牛若丸、異人に遇会ひ、刺撃の法様々ならへるとなり

貴布禰社

貴布禰社は水神岡象女神なり。夫伊弉諾尊軻遇突智をきりて三段とし、其ひとつを高おかみとぞ申ける。此垂迹はやまとの丹生の社と同体なり。皆龍徳の降迹にして、今も雨を請雨を止る事を祈るには此二神なり。

        社司どもきぶねに参りて雨ごひせしついでによめる
新古今
おほ御田のうるほふばかりせきかけて
井ぜきにおとせ河上の神
加茂幸平
千載
貴船川玉ちる瀬々の岩波に
氷をくだく秋の夜の月
俊成
夫木
秋風の吹夕ぐれは木船山
声をほにあげて鹿ぞ鳴なる
成助

梶取社は、二の瀬の里の北に貴船の一の鳥居あり、其かたはらにしづめます。神代のむかし万の神木船にのられしとき、かぢをとりし神とぞ。足洒石は木船川の中にあり、宇治の橋姫貴船へまうで此石に休ひ足を洗しなり。蛍石は木船くらまの落おち合あひ川より南にして、やまのくまにあり。

        和泉式部夫の保昌とかれがれになりける頃、此社にまうでゝ蛍の飛を見て
後拾遺
物思へば沢辺の蛍も我身より
あくがれ出る玉かとぞ見る
和泉式部
とぞ詠げれば、御とのゝ中より男子の声にて
後拾遺
奥山にたぎりて落る瀧津瀬の
玉散るばかり物なおもひそ
貴船明神
式部そのゝち巫をかたらひまつりさせけるに、保昌ほのかにきゝ社の木蔭
に立かくれ見侍りしに、巫となふるにたゞあらぬわざし給へといへば、式
部かほうち赤めて
千早振神の見るめもはづかしや
身を思ふとて身をやすつべき
和泉式部
とよみ侍りければ、保昌きゝもあへず其こゝちの優にいとやさしくおぼえて、
則式部をぐしてかへり、なほ浅からぬむすびしけるとなり。
暗部山

暗部山は貴船山をいふなり。日の神岩戸にこもりましますとき、世界悉くくらやみとなるを闇山といふ。
古今
梅花匂ふはるべはくらぶ山闇に越れとしるくぞあるかな
貫之

大悲山

大悲山はくらまの遥奥なり。花瀬峠(上下山)をこえ、別所村に至りて観音堂あり。平相国清盛のいとなみしとなり。

岩屋山金峰寺

岩屋山金峰寺は満樹峠の北にあり。本尊は不動明王なり。此山は古へ薬王菩薩現じ給ふ霊場なり。開基は役の行者、又弘法大師こゝに籠りて密法を修し給ふ所なり。桟敷嶽は岩屋より一里ばかり北にありて、惟喬親王楼台をいとなみ給ひ幽居ありし所なり。

西加茂神光院

西加茂神光院は開基弘法大師にして、自作の像を安ず。〔四十二歳の像なり、世に厄除大師と称す〕本尊愛染明王は弘法の作なり。〔丑の年の丑の月の丑の日に至れば、当院より財福を得る守りをいだす、諸人群参するなり〕

霊源寺

同所霊源寺は後水尾法皇の御願にして、開基は仏頂国師なり。本尊は釈迦仏〔日蓮上人の作なり〕脇壇には後水尾帝の聖像、又開山の像を安ず。辨財天社〔東福門院の御作の神像なり〕撞鐘堂〔大仏殿金仏の御首を以て鋳立し鐘なり〕

吉祥山正伝寺

吉祥山正伝寺は同所にあり。禅宗にして、開基は東岩いう覚禅師なり。一山に楓樹多くありて、紅葉の頃は千枝爛漫として楚岸呉江をこゝにうつすなり。

薬師山

薬師山は草堂をむすびて瑠璃光如来を安置す、いにしへは伽藍厳重にして、伝教大師ひらき給ふよし。〔今尼寺となる〕

寂光山常照寺

鷹峯寂光山常照寺は法華宗の檀林なり。開基は日乾上人なり。

源光庵

同源光庵は禅宗にして、卍山和尚の開基なり。

光悦寺

同光悦寺は法華宗にして、元本阿弥光悦の営し所なり。はじめは大虚庵といふ。羅山先生此庵の記をかけり。〔羅山文集にいでたり〕

題目堂

同題目堂此奥にあり、常行願目を唱へて断ざるなり。

石門

石門は鷹峯北にあり、両岩あつて其高さ数丈門を構に似たり、是を霊巌寺の石門といふ。むかし円行法師入唐して、青龍寺の義真に両部の密教を授り、承和六年に帰朝して霊巌寺を開きし、其地なりとぞ。

菩提の瀧

菩提の瀧は鷹峯より一里ばかり西にあり。

小野道風の社

小野道風の社は杉坂といふ所にあり、此所の氏神なり。

冠石

冠石は東河内の中にあり、冠の形なれば名とするなり。

龍宝山大徳寺

龍宝山大徳寺は今宮の南にあり。開基は大燈国師なり、名は妙超といふ、姓は紀氏、もと播州揖西といふ所の人なり。父母子なきことをうれひ、書写山の観世音に祈りしかば、ある夜母の夢に、雁飛来り五葉にひらきたる花をあたへけるよと思ひしより姙り。妙超生れていたゞきの骨そびえ立、眼光かゞやき、異形にして十一歳にて書写山の戒信律師につかへ、経書を読、九流三蔵百家の異道まで究め、いまだ髪をもそらずして京師相模に至り、もろもろの尊宿に参問して後、建長の大応国師に謁し、悟道第一の門子となりぬ。大応は延慶元年十二月に遷化あつて、妙超は洛に上り、東山の雲居寺に閑居しける、ある夜の夢に、僧六人来り出世の事いひて、ほどなく紫野に入、仏殿はたてずして法堂ばかり立られしとかや。さて又洗心子玄恵法師其外儒者九人、一志に禅宗を破らんことを朝廷に奏し、議論まちまちありて、諸儒おのおの理に負、しかも弟子となり、洗心子は入室参禅し、大徳の方丈を建、雲門菴と号す。ある時花園帝妙超をめし、仏法不思議与王法と対坐すと勅ありければ、妙超奏して王法不思議与二仏法一対坐など勅答せられしより、後醍醐天皇にいたり寵恩いよく渥く、辱くも投機の頌を宸筆に遊し、興禅大燈国師の号を賜り、又高照正燈国師の号を加へ賜る。延元二年丑臘月廿二日遷化す、寿五十六。〔以上大燈国師行状の意をとる〕仏殿には釈迦仏を本尊にして、梵天、帝釈天、達磨、臨済の像を安置す。雲門庵には大燈国師の像あり、其外花園院、後醍醐院、後土御門院の神主まします。大応国師の画像も傍にあり。真珠庵は一休和尚此所に住居し給ひしなり。真珠庵と一休の筆を染給ひし額あり、庭に聖泉あり、和泉式部が夫少将保昌の宅地なりしといふ。当寺の伽藍は赤松円心同則祐柱石の料を寄す、山門は連歌宗匠宗長修造し、閣は千利休、方丈の門は明智光秀寄進なりといふ。

むらさき野

むらさき野は今宮大徳寺のほとりをいふなり。

続古今
ねられずや妻を恋ふらん北野ゆき
紫野の行鹿ぞ鳴なり
太上天皇
夫木
諸人のかざしてかへるあふひ草
むらさき野にてみどりなる哉
兼昌
今宮の社

今宮の社は紫野にあり、疫神なり。一条院の御宇正暦五年六月廿七日、船岡の山上にまつりけるを、告夢ありて長保二年五月九日此所にうつして、今宮とあがめらる。今は牛頭天王を勧請して二座なり。

後拾
白妙のとよみてくらをとりもちて
いはひぞ初むる紫の野に
藤原長能

弥生十日には夜須礼まつりとて、加茂上野の里人烏帽子素襖のものを着、太刀をかたげ、笛を吹き鉦鼓をならし、此社をめぐりてやすらひ花よと囃しける、一説に、春陽の節はかならず疫えやのみ神分散して人を悩すなれば、当社をなだめしづめてをどりを催すとなり。又高雄の神護寺の法華会には、加茂今宮より祈念して悪気をなだめんとて、踊をなじけるより始るとかや、さるゆゑに高たか雄をの法華会はやすらかにはてよとはやせしを、いつの頃よりかやすらひ花よあすなひ花よなんともいふ説あり。御霊会は五月十五日なり、前の七日は御出とて船岡山の東なる御旅所へうつし侍る。

常盤の古跡

常盤の古跡、義経誕生水は、今宮の東大源庵の傍にあり。左馬頭義朝の別館なり。常盤御前こゝに住で平治元年に牛若丸を産しとなり。

舟岡山

舟岡山は紫野の西にあり、舟の形に似たれば名とせり。応仁年中此山に砦をかまへ、細川山名の両陣数度合戦ありしなり。

        円融院位さり給ひて後、舟岡に子日し給ひけるに、まゐりて朝に奉りける
新古今
哀なりむかしの人を思ふには
きのふの野辺にみゆきせましや
一条左大臣
拾遺
舟岡の野中にたてる女郎花
渡さぬ人はあらじとぞ思ふ
読人しらず
雲林院

雲林院は紫野にあり、淳和帝の離宮なり。仁明天皇の御子常康親王これを伝へ領し給ふ。其後天暦帝の御時、僧正遍照を別当に補せられ、堂塔厳重に建られたり。今は雲林院と唱て此ほとりの郷名となり、旧跡纔にのこる。むかしは桜の名所なれば、和歌には雲の林と詠る。

   今ぞ知る雲の林の星はたゞ
空にみだるゝ蛍なりけり
経信うへのをのこども花みんとて雲林院にまかりけるに、よみてつかはしける
浦山し春の宮人うちむれて
おのが物とや花をみるらん
良暹法師
七の社

七の社は舟岡の南にあり。当社は染殿の后の祈願により、三笠山の春日明神を勧請ましますなり。其後伊勢、石清水、稲荷、加茂、松尾、平野を併奉り、七の社と号す。又一説に、洛北に七野のあり、内野、北野、柏野、蓮台野、上野、平野の等の中に祭れる神なれば、しかいふとぞ。諸願あるものは社前に砂を積て、三笠山やまの状をうつすなり。春日影向の椋の木も此地にあり。

今宮の御旅所

今宮の御旅所は雲林院の巽にあり。毎歳五月七日、本社より神輿遷座ありければ、茶店軒をつらね、芝居、放下師、本弓、楊弓の音絶えず、十八日神輿あらひまで賑しき事いはん方なし。

上品蓮台寺

上品蓮台寺は千本通の北頭にあり。開基聖徳太子なり。其後僧正観空住職して真言宗とあらたむ。本尊地蔵菩薩は聖徳太子の御作なり、又弘法大師自作の像を安置す。寛平上皇此所において蜜潅を禀給ふよし。〔元亨釈書に出〕

金山天王寺

金山天王寺は北野社東の門通にあり、天台宗にして、本尊如意輪観音は聖徳太子の作なり。〔洛陽観音巡の其一ケ所〕開基は聖徳太子にて、則自作の像を安置す。太子堂の額は釈迦如来転毫光所上宮太子浄跡中心と書して、小松院の宸翰なり。

紅梅殿

紅梅殿は天王寺の前にあり、祭る所菅神の愛し給ふ飛梅の霊神なり。

清和院

清和院は七本松通一条の北にあり、真言宗にして、聖観音地蔵菩薩の二尊を安置す、原は京極通春日にあり。今清和院御門と号す、明暦年中に此地に移す。

具足山立本寺

具足山立本寺は同通正親町の西にあり、法華宗にして、日像上人を開基とす。祖師堂だうに安置す。日蓮上人の像を胄影といふ。初め松永久秀の男右衛門佐久道が侍に、佐々木広次といふ者、出陣の時、山中に懐行て胄を覆ひ土中に蔵む。盗人これを奪んとするに磐石の如し、大に惶れ広次に懺悔して、当宗門もんとなり、此尊像に仕て終を遂ける。

千本焔魔堂

千本焔魔堂は蓮台寺の南にあり、引接寺と号す、宗旨は真言なり。本尊は閻魔大王にして、法橋定朝の作。当寺の開基は定覚律師と、鐘の銘にあり。大念仏は文永年中に、如輪上人はじめ給ふ。此寺の桜に普賢像といふあり、弥生の頃花盛りをまちて狂言をはじむるなり。一説に、むかし笙の窟の日蔵上人、冥土にいたり給へば、帝いまして上人に向ひて宣ふやうは、我娑婆の業因深うして今浅ましきくるしみを受たり、汝娑婆に帰りて我為に千本の卒塔婆を供養すべしと、一首の歌を詠じ給ふ。
いふならく奈落の底に入ぬれば刹利も首陀もかはらざりけり日蔵感涙袖にあまり、急帰ると思へば夢なり。此旨を奏聞して、舟岡山に千本の卒塔婆を建、当寺を造立し、いかめしき御とぶらひ供養しけるとなり。

大報恩寺

大報恩寺は引接寺の西にあり、千本釈迦堂といふ。本尊釈迦仏は安阿弥の作なり。宗旨真言にして、開基は求法上人なり。〔春二月に遺教経の法会あり、世人当寺をさしてイキケウといふ〕

天満天神宮

天満天神宮〔中殿、菅丞相〕中将殿〔東間、菅三品嫡子〕吉祥女〔西間、右大臣北方〕菅家の伝記はあまねく世の人の知たる事なれば委記さず。祖は天穂日命の苗裔にして、歴世たゞしく、是善公の御子右大臣名は道真と申奉り、いとけなうして頴悟すぐれ、貞観四年に文章生に補し得業生となり、同じく十二年に対策及第し、十八年に侍従にすゝみ、元慶六年渤海国の使者鴻臚館において、右大臣の詩稿を見て称しけるは、風製白楽天に似たりけるとかや。仁和年中に讃岐の国守に任じ、寛平五年に参議となり、六年九月に吉祥院にて五十賀を修しけり、九年に中納言をへて大納言にのぼり、大将をかね、昌泰二年二月右大臣にすゝみ右大将なりき。この時左大臣左大将藤原朝臣時平とともに、上皇の勅をうけ天子を補佐し奉りぬ。はじめ帝十四にして猶も聡明にて位につき給へり、一日朱雀院〔上皇御所〕に行幸のをりふし、上皇帝に語給ひけるは、右大臣年高く才賢し専ら任用せらるべしとなり。右大臣かたく辞したまふ。左大臣大にうらみ奉り、妹の皇后なりけるをかたらひかずく讒せしにより、遂に昌泰四年正月廿日大宰権帥に左遷し給ふ。それより三とせすぎ、延喜三年二月廿五日配所にて薨じ給ひ、安楽寺に葬奉る、御年五十九歳なり。其後菅霊にてさまざまの事ありしかば、延長元年に左遷の宣旨をすてゝ元の官にかへし、正二位を贈給へり。天慶三年七月菅霊右京七条の文子といふものに御託宣ありて、北野右近馬場に棲との給ふ。又近江国比良の社の禰宜良種に託し給ひけるは、大内の北野に一夜に千本の松を生ぜん、社をば天満天神と崇べしとなり。こゝに於て朝日寺の僧最珍、右京の文子等と力を合せ、霊祠を作り、天徳三年右大臣師輔なほも神威をうやまひ、巍々たる大廈をあらためいとなみ給ふ。今の北野の宮是なり。一条院の御宇正暦四年五月に、勅使を宰府の安楽寺じにつかはし、太政大臣正一位を贈り給へり。末社に船の宮といふは、彼一夜の松なり。此祠に神秘のつたへありとかや。〔以上伝意〕二月廿五日は菜種の御供の御神事あり、七月六日は御手水とて参詣人内殿に入、神宝虫干あり、九月四日当社の祭礼なり。

東向観音

東向観音は忌明塔の西側にあり。本尊は梅桜の二樹を以て、菅神御手づからきざませ給ふ十一面観世音なり。

願成就寺

願成就寺は影向松の坤にあり、本尊は釈迦多宝仏の二尊なり。此寺は足利将軍義満公、山名氏清と内野に於て合戦あり、義満討勝たまひて氏清が首を得たり。氏清は無双の勇士なるゆゑ、其追悼のためとて道場を建、一万部の妙典を読誦し給ひけり。故に経王堂ともいふ。

平野社

平野の社は北野より乾にあり、祭れる神四座なり、源平高階大江此四姓の氏神なり。第一今木神〔日本武尊、源氏〕第二久度神〔仲哀天皇、平氏〕第三古開神の〔仁徳天皇、高階氏〕第四比米神〔天照大神、大江氏〕県社は天穂日命〔中原、清原、菅原、秋篠〕四姓の氏神なり、やしろは桓武天皇延暦年中に建立せり。御くらゐは正一位、清和天皇貞観六年七月十日にさづけ奉れり。例祭は九月上の申の日なり。

拾遺
生しげれひらのゝ京のあや杉よ
こき紫に立かさぬべく
元輔
続古今
難波津に冬ごもりせし花なれや
平野の松にふれる白雪
家隆
新千載
ちはやふる平野の松もけふこそは
花咲春のためしなるらめ
読人しらず
紙屋川

紙屋川といふは、むかし此川のほとりにて紙をすき商ふなり。大嘗会の御とき、荒見川の祓とは、平野の橋より少し北にて行るゝなり。荒見川は紙屋川かはの別名なり、又仁和川ともいふ。むかしは仁和寺広大にして、東は紙屋川のはしまで寺院ひまなく造りつゞけ侍るよしいひ伝ふ。

金閣寺

金閣寺は平野の乾、衣笠山のふもとにあり。禅宗にして、鹿苑寺ともいふ。応永四年に将軍義満公〔鹿苑院院殿なり〕高閣をたて、花美をつくし、金箔を以て一面に粧ひ、閣の前には池広くして、九山八海となづけ、伝ふる奇石さまぐあり。金閣三重にして第一を法水院といふ。〔弥陀の三尊、夢窓国師の像、鹿園院殿道義の像あり〕第二を潮音洞といふ。〔自然木の観音、四天王を安ず〕第三を究竟頂といふ。〔後小松院勅額あり、板敷三間四面一杖板、四壁の板ことごとく金箔を押す〕むかしは境地はなはだ広かりしなり、惣門は紙屋川の西、今の地蔵院の傍にあり、礎今にあり。御所を芳徳といふ、金閣の廻りみな池にして、芳徳の間に反橋を架す、池の南に拱北楼あり、巽に小御堂あり、東に地蔵堂〔数体安ず〕其地を地蔵本といふ、其北に大塔あり、本尊弥勒ろく、方丈の北に一峯あり縦目峯と号しぬ、北方の奇観此地にすぐれたるはなし。

鏡石

鏡石は金閣寺の北紙屋川のうへにあり石面水晶のごとく影を移すをもつて名とせり。

古今 物名
うば玉の我黒髪やかはるらん
鏡の影にふれる白雪
貫之
等持院

等持院は衣笠山の麓にあり。開基は夢窓国師にして、足利尊氏公の建立なり。いにしへは仁和寺の一院といへり。本尊の地蔵菩薩、大聖歓喜天の堂、鎮守六請明神等今に在り、これ皆むかしの遺跡なり。等持院の堅額は相国義満公の筆、足利家累代の昭堂は慈照院義政公のいとなみしなり、証果の額は開山夢窓の筆なり。

衣笠山

衣笠山は等持院のうしろなる山なり。仁治年中に内大臣藤原家良公別荘を建給ふ、衣笠内大臣といふは是なり。

新六帖
はるかなる都のいぬゐ我宿は
大内山の麓なりけり
衣笠内府

絹掛山といふは、むかし寛平法皇、御室に於て水無月の炎天に深雪の眺を好み給ひ、此峰に白き絹をかけさせ、玄冬のけしきをうつし給ふといひ伝ふ。

小松内大臣重盛北山茸狩の地

小松内大臣重盛北山茸狩の地は、衣笠山の東なる麓なり。

大雲山龍安寺

大雲山龍安寺は等持院の西にあり。開基は義天和尚、文明年中に細川右京太夫勝元いとなみしなり。初は左大臣実能公の山荘なり。徳大寺公有公の代、細川勝元此地を乞請られしなり。本尊は釈迦仏、大元達磨の像は東西の壇にあり、恵光禅師の像、細川勝元の像を安ず。堂の内天井の画は東福寺兆殿司の筆なり。〔蟠龍迦陵頻〕方丈は勝元の館書院を以ていとなみ、庭前の築山、池辺の風色は勝元の物数奇なり。此地北は衣笠の山を覆ひ、南は遥に闢て一陽来復より温気めぐる事早し、池の面には水鳥むれあつまり、玄冬の眺をなす、是を龍安寺の鴛鴦とて名に高し。

真如寺

真如寺は衣笠の巽松原村の西にあり。開基は夢窓国師、本尊は釈迦仏、仏光国師像〔壇下に安置す〕達磨、仏国、夢窓の三影〔東の脇壇に安ず〕初は無著尼といふ人こゝに庵を結て正脉庵といふ、康永年中に高武蔵守師直修造すといへり。

正法山妙心寺

正法山妙心寺は龍安寺の南、木辻の西にあり。開山は関山国師、信州の人なり。一洛に来り、大燈国師によりて衣鉢閣に上り、一夕関山雲門の関の字を会得す、大燈また雲門大師来れると夢見て関山と号す。後醍醐帝の問に答奉り、しかも尊旨にかなふ。其後花園法皇禅苑をたて、関山を住職となし給ふ。則ち法皇も方丈の後に一院をいとなみ住せ給ふ、これを玉鳳院といふ。仏殿の本尊釈迦仏〔左迦葉、右阿難〕達磨、臨済〔左右の脇壇〕神牌〔花園院、後花園院、後土御門院、後柏原院、後奈良院〕法堂は北にあり、経蔵は東にあり。玉鳳院は正面に唐門あり、額は法皇の御宸筆なり。

妙心寺十境
和漢禅刹次第出万歳山(仁和寺山)、百花洞(玉鳳院内)、高安灘麒麟閣(玉鳳院内)、
宇多川(妙心寺の東流)、斎宮の杜(東外川端)、度香橋(南門前)、鶏足嶺(北山)、
南華塔(東寺塔)、旧藉田(妙心寺の内花園)
双岡

双岡は妙心寺の西にあり、一二三岡相並たり。

風雅
色くにならびの岡の初紅葉
秋のさがのゝゆきゝにぞ見る
後宇多院
夫木
つゝじ咲双の岡のまつかげに
おなじ夕日の色ぞうつろふ
為相

鳴つゞく蝉のもろ声ひまもなく
ならびの岡の夏の日ぐらし
為家
兼好法師の旧跡

兼好法師の旧跡 二の岡の西の麓にありしを、近世岡の東長泉寺にうつすなり。
ならびの岡に無常所をもうけて、かたはらに桜を植さすとてうゑおきし花とならびの岡をかのへに哀いくよのはるにすぐらん          
兼好

法金剛院

法金剛院 ならびの丘にあり、むかし清原真人夏野の別荘なり。其子右大臣瀧雄公もならびの丘をかのうへに山荘をいとなみて、後寺となして双丘寺となづく。既に荒廃に及ぶの所、大治年中に待賢門院再興ありて、号を法金剛院とあらたむ。宗旨は四宗兼学、中興は円覚上人なり。本尊は阿弥陀如来〔丈六の像、春日作とぞ〕

西光庵

西光庵は双の池の上にあり、浄土宗にして、向阿上人開基なり。

御室仁和寺

御室仁和寺は真言密乗の霊地なり。はじめ光孝天皇の御願として、仁和四年八月にいとなみ給ふ、代々法親王の御法務にて、御門跡と称し給ふこと此寺にはじまりけるとかや。御室と号するは宇多天皇御出家の後、延喜元年十二月に御室を此所に建させ給ふゆゑなり。又承平御門も天暦六年御出家ありて、此所にうつり給へり。金堂の本尊は阿弥陀仏、観音、勢至、脇士とし給ふ。観音院には千手観世音たゝせ給ふ。祖師堂は弘法大師し自作の像、脇壇には寛平法皇の宸影を安ず。五重塔、九所明神、十二権現、経蔵、閼伽井、下乗の立石は藤木甲斐が筆とかや。夫当山は佳境にして、むかしより桜多し、山嶽近ければつねにあらしはげしく、枝葉もまれて樹高からず、屈曲ためたるが如し、弥生の御影向くは猶更、花の盛には都鄙の貴賎春の錦を争ひ、幕引はへ、虞松が酒にふし、李白が恨は長縄を以て西飛の白日を繋ぐ事を得んとは、春色の風客花にめでゝ日ををしむと同じ論なり。

鳴瀧

鳴瀧は仁和寺の西にあり、此所は砥石の名産なり。

山家
しばしこそ人めつゝみにせかれけれ
はては泪やなる瀧の川
西行
妙光寺

妙光寺は鳴瀧の里の北にあり。初は内大臣藤師継の長男右少将忠年〔幼名妙光〕追福のため、北山の別業を寺となし、妙光禅寺と号す。開基は法燈国師なり。本尊は釈迦仏を安ず、宝陀閣の額は木庵和尚の筆なり。紫金台の旧地はうしろの山上に遺る、印金堂は堂内の四方惣印金を押て、当所の壮観こゝにとゞまる。

泉谷の法蔵寺

泉谷の法蔵寺は黄檗宗派にして、百拙和尚の開基なり。同所西寿寺といふは、浄土宗にて、本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作り給ふなり。

五台山

五台山には般若寺あり、開基は観賢僧正、本願は大江玉淵朝臣なり。宗旨は真言古義にして、本尊は文珠菩薩、阿弥陀堂には弥陀観音勢至の三尊たゝせ給ふ、観賢僧正の座禅石は北の方なる山にあり、閼伽井は堂のうしろにあり。

五智山

五智山には五智如来たゝせ給ふ。山上に石彫の五智尊、不動、観音、地蔵の石仏を安ず、これ皆単称法師のきざみ給ふなり。

三宝寺

三宝寺は西の山上にありて、日蓮宗なり。本堂は南向にして、釈迦堂は山上にあり、開基は日護上人とぞ。

泉殿

泉殿といふは妙光寺と般若寺との間にあり。むかし鳥羽院の御子覚性法親王、此所に御室をいとなみ住せ給ふなり。

山槐記
秋の彼岸に故宮のために仏事せんとて泉殿へまゐりしに、
長尾の松原のまへをすぐとて
御集
ありしよの松のみどりの気色まで
憂身は頼む陰なかりけり
守覚法親王御前にまゐりつきて

はかなくて消にしあとをきて見れば
露所せき庭の草むら
                  同
平岡八幡宮

平岡八幡宮は弘法大師の勧請なり。かたはらに大石あり、里人山神とぞ恐れける。

梅畑善妙寺

梅畑善妙寺は華厳宗にして、栂尾に属す、善妙神の社立せ給ふ。蓮華谷程ちかし。

栂尾山高山寺

栂尾山高山寺は華厳宗にして、本尊は釈迦如来、明恵上人の開基なり。紀州有田郡の人なり、九歳の時高雄山上覚に従ひ、倶舎頌をよみ、密乗を尊実にきゝ、雑華を景雅にならひ、又文珠師利に帰し、日々に九字咒を持し、十六歳にて剃髪し、東大寺の戒壇に於て受具し、興念阿闍梨にしたがひ両部の密法をうけ、夫より栂尾に住、賢首宗をとなへぬ。又和歌の道にも心深く、自遣心集と云ふ書を書き歌を集む、新勅撰にも上人の歌あまた入侍りぬ。寛喜四年正月十五日寂す。

槙尾山平等院

槙尾山平等院は真言律にして、開基は智泉法師なり。本尊は釈迦如来、明恵上人の作り給ふ。千手観音は聖徳太子の御作とぞ聞えし。

新後撰
はるきても誰かは問ん花さかぬ
まきのを山のあけぼのゝ空
雅経
高雄山神護寺

高雄山神護寺は光仁帝の御宇和気清麿奏聞し建立有りしなり。初めは神願寺と号しぬ。淳和帝の御宇天長二年に、空海に賜る。神護国祚真言寺とあらため号す。其頃詔を下して、金剛定寺の額を空海和尚に書しめんと勅使を立せ給ひける、をりふし五月雨して清瀧川の水増りて、高雄を山のゆきゝ止りける。勅使則川のほとりにたゝずみ給ひ案じ煩ひ給ひけるを、空海しろしめして、筆に墨をふくませ、持たる額に向ふて書給ふに、墨霧のふる如く飛で、額の面に忽ち金剛定寺の四字現れける。〔大師行状記意をとる〕額書石〔石面に窪あり、硯石とす、楼門の外にあり〕金堂の本尊薬師如来、講堂の五大尊ともに弘法大師の作なり。楼門の額は仁和寺覚信法親王の御筆。納凉坊には弘法の像を安ず、文覚上人の画像もあり。鐘楼は金堂の艮にありて、鐘の銘は菅原是善卿、序の詞は橘広相、筆者は藤原敏行なり、是を世に三絶と号す、本朝の名器にして又ならぶものなし。八幡宮は経蔵の巽にあり、護法のやしろは和気清麿の霊をまつるとなり。此所はむかしより紅葉の名所にて、奥の地蔵院より下なる渓をはるかに見おろし、立田の秋の色そひ、水にうつろふ紅に、峰の夕日かゞやき、あらしに見たるけしき錦をさらすなど詠みけんも思ひやられ、停レ車坐看楓林晩とは杜牧が詞なり。

タイトルとURLをコピーしました